はてブで知ったんだけど一体これはなんなんでしょう?
⇒【本郷和人の日本史ナナメ読み】(58)秀吉の家名、実は生涯「羽柴」のまま?(1/4ページ) - 産経ニュース
国学院大学のホームページに秀吉の妻、おねさん=豊臣吉子の文書の紹介(http://www.kokugakuin.ac.jp/guide/kouho0100013.html)があるのですが、それには「とよとみのよしこ」とふりがなが振ってある。ということは秀吉も「とよとみのひでよし」かもしれない、との説明があります。なるほど。とすると、「豊臣」は「かばね」であって、彼の「家」は羽柴のまま、とも考えられる。秀吉は、羽柴秀吉から出世して豊臣秀吉になったのではなく、近衛前久(さきひさ)→「かばね」は藤原、徳川家康→「かばね」は源、と同じく、羽柴秀吉→「かばね」は豊臣、になったのかもしれませんね。
「かもしれませんね」って何ですか?「かもしれませんね」って…
いや、俺はド素人で本郷先生は東京大学史料編纂所の教授であらせられるんですけど。
ウィキペディアにも
その後、秀吉はさらにこの「豊臣」氏に改める。改姓の時期については明確でない。
(以下略)
⇒豊臣氏 - Wikipedia
って書いてあるじゃないですか。
ソースがウィキペディアかよ?ってしかしこれはさすがに常識でしょう。
大体、口宣案に「豊臣吉子」って書いてあるってことは、豊臣が「姓」だってことでしょう。ちなみに当時は良く知られているように「男女別姓」であって北政所は桓武平氏の杉原氏の出で清和源氏の浅野氏の養女。つまり北政所も改姓したってことでしょう。
ちなみに備中足守藩木下家は江戸時代でも豊臣姓
お殿様の書「鶴雲(かくうん)」
左側に署名があり「豊臣利徳書」とあります。木下利徳候(一七八九〜一八二一)は足守藩第十一代のお殿様です。豊臣姓は豊臣秀吉から名乗ることを許されています。
初代足守藩主木下家定候は豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の実兄です。
で、本郷先生は
国学院大学のホームページに秀吉の妻、おねさん=豊臣吉子の文書の紹介(http://www.kokugakuin.ac.jp/guide/kouho0100013.html)があるのですが、それには「とよとみのよしこ」とふりがなが振ってある。ということは秀吉も「とよとみのひでよし」かもしれない、との説明があります。
って書いてるんだけれど、原文は
「吉子」は「おね」の公家風の名前ですが、「とよとみのよしこ」というふりがなが付されていることは注目できます。当時の呼び方は「とよとみよしこ」ではなかったのです。この点を考慮すれば、秀吉も「とよとみひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」と呼ぶべきなのでしょう。
⇒國學院大學 | 「天下人の時代」(「戦国・織豊期の古文書」資料紹介)
じゃないですか。
「呼ぶべきなのでしょう」って書いてあるのをが「かもしれない」に変換しているんだけど、かなりニュアンスが違うんじゃないですかね?
「呼ぶべきなのでしょう」というのは本当は「とよとみのひでよし」だから、今の慣例ではなくて正確さを追求して当時の呼び方を尊重するのならばそう呼ぶべきなのでしょうって意味だと俺は思いますけどね。
本当この先生はよくわからない人ですね。
(追記 1/21)
議論の余地がないのだとしたら、織田政権、徳川幕府という呼び方と同様に、豊臣政権ではなくて羽柴政権と呼ばねばならぬわけですね。@kiyo_2643 「姓=氏」と「名字」は異なるという当たり前の話ではないのか?「?」がつく要素がどこにあるのか全然わからん。どこに議論の余地あるの?
— kazuto hongo (@diamondfloor41) 2015, 1月 19
現代人がどう呼ぶべきかなんて話じゃなかったですよね。
羽柴秀吉→「かばね」は豊臣、になったのかもしれませんね。
って話でしたよね。これは話のすり替えですよね。先生は古文どころか現代文の解釈も危うい人ですね。