多神教の不寛容とフランステロ

日本人は異なる宗教に寛容なのか【瓜生崇】 | リレーコラム|浄土真宗の法話案内

これは全くその通りであって、俺も前に書いたつもりだと思って過去記事探したけれど見つからなかった。ただし、
多神教 - 国家鮟鱇
というのを書いたときには、それが念頭にあって、そこで紹介した
一つの多神教という日本的ファンタジー - 数えられなかった羊
という記事には同趣旨のことが書かれていると思う。


ところでこの記事の筆者の瓜生崇氏が一番言いたいことはコメント欄にある

この文章はそもそも私たちは異なる宗教に寛容になれないことを認めていこうという趣旨なので

であって「寛容になれ」ではなくて「不寛容だということを認めましょう」である。


さて、これはフランス紙襲撃テロ事件に関して書こうと思っていたことだけれど、日本での反応の主流は「テロは絶対に許されないがフランスの言論の自由にも違和感を持つ」というものであろう。俺もそう思う。


フランスという国は一見多様性を重んじているようで根底はそうではない。非常に普遍性(単一の価値感)を重んじる国である。たしかに「宗教の自由」は認めているけれども「預言者の風刺画を受け入れなければならない」という条件がついている(いや法律でそうなっているわけではないけれど)。なぜならキリスト教はそれを受け入れたからである。


キリスト教が受け入れているんだからイスラム教も受け入れなければならないのである。それが平等というものだ(と考えているのだ)。しかもそれを彼らは強制だとは思っていないのである。それが人類の普遍的な「進歩」であり「歴史的必然」だと考えているのだ。キリスト教徒も昔は風刺などタブーだったが今ではそうではない。それと同じでイスラム教徒もやがて受け入れるに違いない。人類は皆同じなんだから。そう考えているのだ(逆に言えばイスラム教徒は後進的だと暗に考えているのだ)。彼らはそれが普遍的な考えだと思っているのだ


そんな考えに極東の島国に住む我々は違和感を持つのだろう。


ただし、我々の感覚もまた特殊なものである。いや日本だけでなくアメリカや英国その他でも似たように違和感を唱える主張があるではないかというかもしれないけれども、それでもやはり特殊なんであって普遍ではないのだ。フランス人の感覚は理性主義の啓蒙思想の影響が大きいとしてもフランスの歴史が作ったものであって、日本人の感覚もまた歴史が作ったのだ。自分達はフランスとは違って寛容だみたいな考えは誤りであろう。それは自覚しとかなければならないと思う。