政権批判の自由

先月のフランス紙襲撃テロ事件における日本人の反応は「テロには強く反対する。しかしフランスの表現の自由にも違和感がある」というものが大多数であったように思う。右から左までイデオロギーに関係なく同じような反応が見られた。


これはなぜかというと、日本人の表現の自由の感覚が普遍的なものだからというわけではなくて、おそらくは日本の風土によって培われた感覚であり、つまり日本の特殊性であったろうと思う。もちろん米英などでも似たような反応はあったわけだが、それもまたそれぞれの風土によるものであり、そしてフランスはフランスで特殊な表現の自由の感覚があるということだろうと思う。


その「フランスの表現の自由」の感覚というのは、フランス革命以来のフランスの歴史によってつくられたものであり、「現実社会における目的があって宗教を風刺する必要があったから風刺した」というよりも「自分達には宗教を風刺する自由があるのだ」ということを確認したいために風刺している、すなわち「表現の自由」は目的のための手段ではなくて、それ自体が目的となっているのだろう。常に風刺していないと自分達の自由が無くなってしまうのだというような感覚を持っているのではないだろうか。


このようなフランスの感覚というのは、左翼一般が所有する感覚でもある。したがってフランス流表現の自由に対して、日本人の大半が違和感を持った、すなわち左翼も違和感を表明していたということに俺は少し驚いた。おそらくは彼らも自覚しないままに日本の風土に影響されていたということだろう。


さて、テロリストの矛先は日本人にも向けられた。それに関して
政権批判の自粛「社会に広がる」 1200人が声明:朝日新聞デジタル
という反応が出てきた。


果たして日本のメディアが人質事件発生後に政権批判を自粛しているのかというと、俺には到底そうは見えないのだが、彼らにはそう見えるらしい。
なおこの手のメディアが○○という主張を取り上げないという批判はネトウヨがよくするところでもある。どっちが本家かといえばこっちが本家かもしれないが)


そもそも

 元経済産業官僚の古賀茂明さんは「いまは相当危機的な状況に至っている」。1月下旬、コメンテーターとして出演するテレビ朝日の番組で人質事件に絡み「アイ・アム・ノット・アベ」と話したところ、ネット上で「政権批判をするな」などの非難が殺到。神奈川県警から自宅周辺の警備強化を打診されたという。声明では、「物言えぬ空気」が70年前の戦争による破滅へ向かった、と指摘している。

は、ネットで批判があったという話で、メディアが自粛しているという話ですらない。自分と違う意見があったら非難する人もいるのは当然だ。暴力に訴えるのは許されないが、言葉の抗議だけならそれもまた「表現の自由であり、自分の表現の自由は守らなければならないが、自分を批判する表現の自由は無いとでも言いたいのだろうか?全くおかしな話である。


(なお詳細はわからないが「神奈川県警から自宅周辺の警備強化を打診された」とあり、暴力に訴えようとした人がいたのかもしれないがそれは日本人の極一部である。イスラム風刺画で抗議したイスラム教徒は大勢いただろうがテロリストは極一部である。この人はどうか知らないが一部のテロリストをもってイスラム教徒はテロリストなどと言ってはいけないというのは特にこの手の人達が強く主張するところであろう。ところがここでは一部の日本人をもって日本社会の話にしているのである)


それはともかく、この人達も「フランス流表現の自由」と同じように、常に政権批判をしていなければ表現の自由が失われてしまうと思っているのだろう。だからとにかく政権を批判しなければならない。それがどんなに無理矢理なものであっても批判し続けなければ不安になってしまうのだろう。


(批判するならするでもっとましな批判をすればいいのにと思うけど)


まあ、当人達はそうじゃないと否定するかもしれない。批判すべきことがあるから批判しているのだと。しかし内輪受けはするだろうけれど大多数の人にはそうは見えないだろう。彼らが声高に叫べば叫ぶほど人は離れていくでしょうね。



※彼らはたとえばメディアで「人種差別をやめよう」という主張ばかり取り上げているのはけしからん翼賛的だ、人種差別は必要だという意見も取り上げろなんて主張には絶対に反対するだろう。つまりダブスタだ。しかしそれを自覚していないのは自分の主張が正しいものだからという自信があるからなんだろう。ニセ科学を主張している人もそうだけど、自分達の主義主張が採用されない、紹介されない、あるいは批判が殺到するのは陰謀があるからだと思い込んでいるのだ。しかし「自分の主張は正しいのだから取り上げろ」というのなら正直な主張であり、なおかつ批判の自由が許容されていると考えられるだけまだましなんであって、そのことは言わないで批判されたことをもって言論の自由の抑圧だなんて主張するのは愚劣なことである。