リベラルとは何か(その2)

「リベラル」の辞書的な説明は

1.自由なこと。
2.自由主義的。

だが「自由」には相反する二つの考え方がある。それについてハイエクが説明している。

 このような社会主義の主張がもっともらしく聞こえようとするために、「自由」という言葉の意味を社会主義者たちがきわめて巧みに変更させてしまった事実は、重要きわまりない問題であって、われわれはこの点を精査しなければならない。かつて政治的自由を主張した先人たちにとっては、自由
という言葉は圧政からの自由、つまり他者のどんな恣意的な圧力からもあらゆる個人が自由でなければならないことを意味していたのであり、従属を強いられている権力者たちの命令に従うことしか許されない束縛から、すべての個人を解き放つことを意味していた。ところが、社会主義が主張するようになった「新しい自由」は、(客観的)必然性という言葉で表現されるような、とても逃れえないと思われてきたすべての障害から人々を自由にし、すべての人間の選択の範囲――もちろんその範囲は人によってはきわめて広く、人によっては狭い――をどんな例外もなく制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった。つまり、人々が真に自由になるためには、それに先だって、「物的欠乏という圧政」が転覆されなければならず、「経済システムがもたらす制約」が大幅に撤去されなければならない、とこの「新しい自由」は主張した。
(『隷属への道』F・A・ハイエク

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

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一方の自由は政府の介入に消極的な自由。極端なのは国家の機能を防衛・警察等に限定した夜警国家。一方は「新しい自由」。国家の積極的な介入を支持する。極端なのは人民の意志と国家の意志の一体化による「自由」の実現。一般意志がそれを可能にすると考えられたが、現実には独裁による悲劇を生んだ。東浩紀の一般意志2.0のように技術の進歩によって可能になると考えてる人間が未だにいるようだが…


とにかく、ここで言いたいのは同じ「自由」という言葉を使っていても、その中身はまるで違うということ。同じ目標を目指しているが方法が異なるといったレベルのものではない。一方は一方が言う「自由」を「自由ではない」と考えているのだ。根本が異なるのだ。


同様のことは他にもある。最近何かと話題の三浦瑠麗氏の記事。
9条とリベラリズムの死 - 山猫日記  国際政治学者、三浦瑠麗のブログです
この記事自体が憲法9条の話で話題になっているようだが、俺が気になったのはそこではなくて、その前の部分。

リベラルにとっては自由が大切であると言っても、経済分野では自由よりも規制に傾く傾向があります。それは、自由経済はどうしても貧富の差を生んでしまい、弱者の実質的な自由を奪ってしまうことが多いから。結果として、大きな政府を通じて経済を統制するような方向に行ってしまう場合もあります。

既に書いたように「自由」という言葉に2つの意味がある以上、リベラルにとって経済分野での規制というのは、「自由の規制」ではなくて「自由のための規制」である。つまり「自由よりも規制に傾く傾向」という場合の「自由」はリベラルにとっては「自由」ではなく「自由を阻害するもの」であるから、リベラル的視点に立てば「自由を阻害するものを規制する傾向」という当たり前の話になる。


次に

本来は、リベラルは共産主義に代表される権威主義的な左翼とは明確に区別される存在なのですが、特に経済分野では両者に混同が生じやすいのです。

共産主義は「権威主義的」とするのは非共産主義から見た視点であって、共産主義者自身が共産主義を「権威主義」だと肯定的に評価しているわけではなかろう。よってこれも誰の視点によるものかということが問題になる。共産主義においては人民政府は「人民の意志」を反映したものということになってるので人民は権威に服しているわけではない(理論的には)。しかし外部から見れば、あるいは実態としては権威主義に見えるのである。そういう観点からすればリベラルの大きな政府も見方によっては「権威主義的」である。つまりこういう説明はある人にとっては腑に落ちるものであっても、また別の人にとっては腑に落ちないものとなるのである。


そしてもっとも気になったのはこの説明。

社会問題では、リベラルは多様性を重視します。いろんな立場の人の自由を認めるためには、結局多様性を重視するしかないからです。リベラリズムは、宗教、人種、性別、年齢、性的嗜好と多様性の幅を徐々に広げてきました。

「多様性を重視する」というのはどういう意味であろうか?思うにここで言う「多様性を重視する」とは「多様な存在に平等な権利を認める(または平等に規制する)」ということであろう。基本的にはそれが悪いことだとは思わないけれども問題は生じる。たとえばシャルリー・エブド襲撃事件の原因となった風刺画。フランスの平等思想ではキリスト教徒もイスラム教徒も平等に扱われる。それを多様性を重視すると言えば言えるけれども、一方でキリストの風刺が許容されるべきであるのと同様にムハンマドの風刺も許容されなければならないという考えがある。同じくフランスでは学校に十字架のペンダントをしてきてはいけないのと同様に、イスラム教徒の女性がスカーフを着用することも禁止されている。これらイスラムへの規制は、右派の方が積極的に主張しているのかもしれないが、(左派の)リベラル的な主張でもあろう。これを果たして「多様性を重視する」ということができるのだろうか。


少なくとも「多様性を重視する」にも、思想によって異なった意味があると思うのである。俺の考えではリベラルが目指すものは誰もが唯一絶対の真理に(自主的に)服従することである。よって「多様性を重視する」といってもあくまで絶対的な真理の下位に属するものであり、「絶対的な真理」と「多様性を重視する」は対立するものではないという思考の元におけるものだろうと思う。