リベラルとは何か

リベラルとは単純にいえば「自由主義」のこと。ただし、ほとんどの思想は「自由」を支持しているので、これだけでは何の説明にもならない。個人に対して自由を束縛するあらゆるものを否定するのが自由主義。すなわち国家権力だけでなく、家族・地域社会あるいは伝統・慣習などの個人に対する束縛も否定する。一方、保守主義は、家族・地域社会等の中間団体や伝統・慣習を尊重する。なぜならば、それら個人と国家の中間にあるものは国家という中央の権力から個人の自由を守る存在だから。


すなわち、
保守主義は「個人-中間団体等」と「中央」の対立という世界観
自由主義は「個人」と「それ以外」の対立という世界観
(これを説明する解説が非常に少なく、個人と権力の二項対立のみで説明するから理解が進まない)


その自由主義の中で、文字通りあらゆる自由を尊重し、個人への権力の介入を拒否するのが古典的な自由主義


一方、そのような自由放任では却って個人の自由は失われるとする考え方が登場する。自由と規制は矛盾するようだが、「個人」の自由を規制する側も「個人」であればその矛盾は解消される。すなわち「個人と国家権力の一体化」が達成されれば、個人は自分の意志で自分に規制を課しているのだから、つまり、人民が作った国家で人民の意志により決定された法律その他は人民が望んだものであり、何者か外部の者による規制ではないということになる。


現実には、全員が賛成するなんてことはありえないので、そこに「一般意志」という概念が導入される。これは要するに人民を一個の生命体とみなすようなもので、「人民」の脳が決めたことは、人体に相当する個々の人間の意志でもあるということだ。そういう社会を望んでいたのがルソーであり、フランス革命の革命家であり、マルクスであり、北朝鮮であり、あるいはナチスである。


けれども、理論的にはそういう社会がありえても、実際には権力は権力でありそのような思想は独裁政治に行き着く、現実にそういう思想によって作られた体制による悲劇が繰り返されてきた。


一方、そこまで過激ではない思想もある。それが「社会民主主義」という思想。自由放任主義とは違い、国家による規制や福祉を重視するけれども、国家権力に対する信頼は、上に書いた思想ほどには絶対ではない。自由主義国と呼ばれる国で左翼とされる思想は、ほとんどこれ。


この思想がアメリカでは「リベラル」と呼ばれる。なぜリベラルと呼ばれるかというと、アメリカでは「社会(ソーシャル)」という言葉は否定的に受け止められるから。アメリカ特有の呼び方と言われることもあるけれど、既に書いたように自由放任主義も「自由」を、社会民主主義も「自由」を、どちらも「自由」を目的としたものであり、しかしながらその「自由」の定義が全く異なるというのが根本的な混乱の原因であり、リベラルではなくソーシャルと呼べといったところで、あまり意味はない。


どっちも自分達こそが「リベラル」だと思っているのだから、中立的になろうとすれば、便宜上「右派・左派リベラル」とか「リバタリアニズム・リベラル」とかの表記で区別するしかない。また読むほうも文脈を読んで、ここでいう「リベラル」とは、どのリベラルなのかと理解するリテラシー能力が必要になる。面倒くさいが、面倒くさくなくなる方法が思いつかない。


で、日本のリベラルだが、これがまたさらにややこしい。自由民主党には「自由」の文字が入ってる。ただし日本民主党自由党が合同したからこういう名になっているに過ぎず、あまり深く考える必要はない。ただし自民党はどう考えたって上の定義のリベラル政党である。具体的にはケインズ政策を採用してきた政党である。自民党を指して「新自由主義」だというのは明らかに間違ってる。ただし党には新自由主義思想の人もいる。自民党は基本的には社会主義革命を阻止するために様々な思想の持主が寄り合っている集団であり、特定のイデオロギーがあるわけではない。その中でケインズ派が主流を占めてきたということ。ややこしいことにそういう人達のことを「保守本流」と呼ぶ。彼らは自分達のことを「リベラル」と呼ぶことも無いわけではないが、基本的には自称してない。


一方、野党は一部例外を除けば「社会民主主義」である(共産党も含む。なぜなら彼らもいきなり共産主義にするとは言ってないから)。ただし旧民主党民進党)には新自由主義者もいると思われる。なお歳出削減を求めているからといって新自由主義とは限らない。ややこしいが(実際はややこしくないが)日本では歳出削減を求めている=小さな政府だ、新自由主義だと等式で言われるけれども、財源には限度がある(ないという人もいるけど)のだから、大きな政府を目指していたって財政健全化を求める声が出てくるのは当然であろう。


その日本の中の「リベラル」も一口に「リベラル」と言っても一様ではない。で、リベラル同士で「あれは本当のリベラルじゃない」なんて批判合戦があったりするのだが、リベラルの定義からすればどれもリベラルだろう。まあ、そういう論争があるところがいかにもリベラルらしいところではあるけれど。


で、俺は多様な「リベラル」を区分けするのに、その主義主張よりも、自己の思想をいかに絶対視しているかで区分している。つまり自分と異なる主張を持つ人に対して「その主張に同意できないけれども。そういう主張がありえること自体は認める」という人達と、「自分の思想以外はありえない」として異なる主張に対して、それを主義主張だと認めずたわごとだという態度を取り、ひどい場合は罵倒を浴びせる人達である。ただしリベラルの人達には多かれ少なかれそのような性質が備わっていると思っている。それはリベラル思想の成り立ちからしてそうだったのだからそういうことになってるのだと思ってる。