過激なリベラルが全体主義になるのは当然の帰結である

2017-09-24 - 今日の雑談

何と申しましょうか、このブログでは個人主義全体主義は正反対のものでは決してなく、むしろ親和性の高いものだということを何度か書いているわけですが、そういう話はあまり一般には理解されてないのであります。


「左翼」の対極的二義性を語るのは論理レス?
個人主義が全体主義とつながっていることの実例


ごく簡単に言えば、左翼・リベラル・革新などと呼ばれる思想の源泉はそもそも全体主義思想であり、思想を突き詰めれば突き詰めるほど全体主義になるのは当然なのであります。ただ彼らはそれを全体主義とは思ってないというだけのことであります。そもそも、彼らの思想のルーツであるルソーは

社会における全ての構成員が各人の身体と財産を保護するためには、各人が持つ財産や身体などを含む権利の全てを共同体に譲渡することを論じる。人びとが権利を全面的譲渡することで、単一な人格とそれに由来する意思を持つ国家が出現すると考えられる。

社会契約論 - Wikipedia
と主張しているわけで、これは今日の日本で言うところの「全体主義」に他ならないのであります。


「ゆるいリベラル」は、そのことを正面から受け止めていないので、そういう指摘をされても「何かおかしなことを言っている」と感じてしまうのであります。そしてある意味「真のリベラル」の方々の全体主義的傾向を、本当のリベラルではないと見做してしまうのであります。


そもそも(大雑把に)歴史を遡ればヨーロッパの人々はキリスト教を信仰していたわけですが、その信仰には教会が介在していたのであります。教会なくして信仰はありえなかったのであります。ところがルネサンスの時代になると人々はそれに疑問を持つようになりました。我々は神を信仰しているのであって教会を信仰しているのではないと。教会なんていらないんじゃないか?我々は直接に神とつながればいいじゃないかと。いわば信仰の流通革命であります。問屋は中間手数料を搾取し、消費者のためではなく自分たちの利益を優先しているのではないか?問屋を通さず直接生産者から買えばいいではないか、みたいな話と類似しているのであります。


それと似たことが、あらゆる分野で起ったのであります。「神」やそれに相当するような絶対的な真理。そういうものに我々は直接アクセスすれば良いのであり、その中間に存在するものは不要であるばかりか害悪だと考えられたのであります。その中間にあるものというのが、王や貴族、あるいは合理的根拠の無い身分や慣習、そういうものを取っ払ってしまえば我々は自由になり、幸せになると考えられたのであります。それこそが市民革命の動機となったものであります。


しかしながら、誰もが絶対的な真理にアクセスすれば良いといっても、それを正しく理解できるかは別問題で、間違った理解をしてしまったら目も当てられないことになってしまうのであります。そこで「賢い人達」が「賢くない人達」に真理とはこういうものだと教えてあげる必要があるのであります。もちろんそこに私利私欲があってはならず、「賢い人達」は純粋な気持ちで人々を指導しなければならないわけであります。


良い話のように見えるかもしれませんが「賢い人達」が純粋に良かれと思って教えているのに、それをまともに聞こうとしない、あるいは反発する人達は「人間の屑」になるわけであります。彼らはなぜ人の話をまともに聞こうとしないのか?それはかつての教会のような、真理と人の中間にあって、人々を惑わすものがまだ残存しているからで、それらを徹底的に破壊することが必要で、それが成功すれば人々は自ずと(「賢い人達」の助けを借りて)真実に直接アクセスするようになるのだということであります。それが彼らの言うところの「自分の頭で考える」ということであり、それこそが「個人主義」なのであります。つまり彼らの言うところの「個人主義」の行きつくところは、全員が同じ考え(絶対的真理)を他者に強制されるのではなく自発的に持つということであります。


「リベラルなのに全体主義」ではなく「リベラルだから個人主義であり、なおかつ全体主義」なのであります。