ヤマトタケルとは何者か?(その2)

「ヤマトタケル」(澤井 理乃)より

古事記中巻が持つテーマは、天皇の世界のもととなる神話的な部分の上巻をうけて、天皇が中心となる世界の成り立ちを語ることにあった。神武天皇から応神天皇までの間で、天皇の秩序の世界が確立されていき、下巻では完成された天皇の天下のもとで話が進行していくのである。ヤマトタケルはその中巻最後の締めを担っている人物であった。そのヤマトタケルの死は、古事記が目指した天皇中心の世界作りを完成させるための必要不可欠なプロセスであった。

 天皇の目指した秩序世界、それは血で血を洗い、力ですべてをねじふせるような世界ではなかった。あくまで「言向(ことむ)」けて「和平(やわ)」すことが目指すものだったのである。ヤマトタケルの物語は、いわば旧古代支配体制と新古代支配体制の対立の物語だった。旧古代体制の王であったのがヤマトタケルであり、新体制の王が景行天皇である。もう少し分かりやすく言い換えると、ヤマトタケルは猛々しい武力や神秘的な霊力・呪力、神通力でもって己の力で支配を勝ち取るような「古代の中の古代」に生きる存在であり、またその世界を象徴する王であった。しかし古事記が目指す究極の天皇像は「古代の中の近代」に生きる天皇である。既存の神々を統括し、なぎ払い、新しく耕してゆくのがその目的であったということである。神武天皇より続いた天下統制の終着点は、いかに旧古代体制を新体制の中に吸収するかということにかかっていた。

しかし、旧体制を制するためには、旧体制に見られるような力ずくの一面がなくてはならないのも事実である。そこで新たな体制による王権の確立に強力しながらも滅んでゆく古代の中のさらなる古代性を一人の人物に描き出した。それがヤマトタケルであった。ヤマトタケルはそのような王権を確立してゆくためには必要不可欠な、しかし新しい秩序を得て持続していくべき王権には不要な、王権や統制の「陰」または「負」の部分を背負った人物であり、それゆえに古事記の中では死んでもらわねば困る存在だったのである。勝負は常に勝った方が正しいと認識される。ヤマトタケルは大和に帰ることなく果ててゆく。霊力や呪力を手放した瞬間に滅びの道を辿るヤマトタケルは、否定されてゆく古代性の未来を象徴していた。

これがおそらく現在の日本神話研究におけるヤマトタケルの典型的なイメージだろうと思われる。しかし俺の考えは全く異なる。


ヤマトタケルは「旧古代体制の王」ではない。全く逆であって、ヤマトタケルは「新体制の皇祖」である。現代まで続く皇室はヤマトタケルの子孫であり、「景行天皇-成務天皇」のラインの延長線上ではない。


したがって「旧古代体制の王」はヤマトタケルではなくて「景行天皇-成務天皇」のラインである。ここにおいて初代神武天皇から続く親から子への皇位継承という神話的伝統が途絶えたのである。もちろん、これは王朝交代ではない。現代の神話研究はすぐにそういう話になるから面倒くさい。この際その手の話は考慮する必要は全くない。これはあくまで「神話」なのだから。


ところで「神話」とは「神の話」と書くくらいで、厳密にいえば『日本書紀』における「神代紀」が「神話」であり、初代神武以降を「神話」と呼ぶのは不適切なのかもしれない。しかしながら、たとえばヤマトタケルは死んで白鳥になったなど、到底史実ではなく「神話的」な話が人の代になった後にも多く語られているのである。そして基本的には時代が新しくなるにつれ神話的要素は減り現実的な話が増えていくということになる。これは当然のことのように思われるが、しかし重要なことだ。


記紀」は神話で終わらない」ということは、誰でも知っている常識だが、それの意味することが、どれだけ研究に反映されているのか実に怪しいものだ。「記紀」特に『日本書紀』は神話ではじまって現実に実在した天皇の物語に引き継がれる。それが意味するところは「どこかで現実に近付けていかなければならない」ということだ。


永久に神話を続けていくことはできないのだ。


何度も繰り返すが、初代神武天皇から13代成務天皇までは親から子への皇位継承だ。神話だったらこの親子継承は永久に続けられる。しかし現実の王朝ではそれはおよそ不可能なことだ。必ず王に後継者が生まれて成長するとは限らないからだ。親から子への皇位継承が天壌無窮の原則だったら、現実に子への継承ができなかったら、そこで王朝が終わってしまう。そしてそれはほぼ確実に起こりえることだ。

(なお足利将軍は親から子への継承だけだと5代、徳川将軍は4代しか続かない)

したがって、親から子へではない皇位継承の先例がどうしたって必要になる。当然ではないか。


澤井論文では、ヤマトタケルの存在は旧体制から新体制への移行に必要不可欠な存在だったと主張されている。それは全くその通りなのだ。しかしその中身が全く違う。


ヤマトタケルの存在は神話的世界から現実世界に移行させるために必要不可欠なのである。ヤマトタケルの「悲劇」とは実は新体制の皇祖になるための「試練」なのだ。もちろんヤマトタケルの役割がそれだけに限定されるものではないだろうけれども。


そのように考えていけば、ヤマトタケルだけが「神話的世界から現実世界に移行させるために必要不可欠な存在」だったわけではない。もちろん継体天皇の存在もそこに入るということになるのである。