応神天皇と気比大神(その7)のつづき。
『先代旧事本紀』「国造本紀」によると角鹿国造は「志賀高穴穂朝」の御代に吉備臣の祖の若武彦命の孫の建功狭日命を国造に定めたという。
⇒角鹿国造 ( 越 )
『古事記』によると、第七代孝霊天皇の子は、
細媛との間に孝元天皇。
春日之千千速真若比売との間に千千速比売。
オホヤマトクニアレヒメとの間にヤマトトモモソビメ、ヒコサシカタワケ、ヒコイサセリビコ(大吉備津日子)、ヤマトトビハヤワカヒメ。
ハヘイロド(アレヒメの妹)との間にヒコサメマ、ワカヒコタケキビツヒコ(若日子建吉備津日子)。
この内、大吉備津日子と若日子建吉備津日子の二人が吉備を平定した。大吉備津日子は吉備の上道臣の祖、若日子建吉備津日子は吉備の下道臣・笠臣の祖。また、ヒコサメマは針間の牛鹿臣の祖。ヒコサシカタワケは高志の利波臣・豊国の国前臣・五百原君・角鹿済(海)直の祖。
なお、ワカヒコタケキビツヒコの娘がハリマノイナビノオホイラツメで、ヤマトタケルの母。『播磨国風土記』の「ワキイラツメ」と同一と考えられ、陵墓はアマノイササヒコを祀る日岡神社の近くにある(日岡陵)。
『日本書紀』によると、
細媛との間に孝元天皇。
ヤマトノクニカヒメとの間にヤマトトトビモモソヒメ、ヒコイサセリヒコ(彦五十狭芹彦)、ヤマトトトワカヒメ。
ハエイロドとの間にヒコサシマ、ワカタケヒコ(稚武彦)。
稚武彦は吉備臣の祖。
角鹿国造の任命を成務朝とするこの伝承について、史実とはとれないとする説もあり、吉備臣とのかかわりがつけられている伝承も同様である(『敦賀市史』通史編上)。しかしこれらが史実でないとすれば、何故にそれが「国造本紀」に記されたかを考えなければならない。
と主張しているが「気比」と「吉備」がどちらも「キビ」と読めることについては何も言及していない。
むしろ、なぜそのことが考察の対象外になっているのかが謎だとすら思う。