応神天皇と気比大神(その4)

応神天皇と気比大神(その3)のつづき


古事記』及び『日本書紀』に載る応神天皇の「名易え」の説話は「気比(けひ)」から「かへ」を連想し、気比大神は「名前を変えた神」という意味であり、その由来を物語ったということだろう。俺は古語に詳しくないけれどケヒがカヘと同義に用いられる事例が実際あるのなら、それで決まりではないか。


要するに単なるダジャレであって、そこに深い意味はなさそうに思える。成人儀礼だとか深読みしすぎではないだろうか?応神が何故禊のために敦賀にまで足を運んだのかという謎も、地名由来譚のためにそうする必要があったからであろう。御子も応神である必要は特になかったのが神功皇后の祖のアメノヒボコが都怒我阿羅斯等と同一視されているために応神とされるようになったのではあるまいか?


むろん、説話といえどもある程度「そういうこともあったかもしれない」というリアリティが必要だから、そこから当時の風俗や天皇観を探ることは可能だと思われ無意味ではないとは思うけれど、応神天皇に特定して歴史の真相を探るみたいなことをしても得るものは無いのではないかと俺は思う。


ただし気になることはある。


気比大神の名前の由来はウィキペディア

伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。

氣比神宮 - Wikipedia
とあり、「御食(ミケ)」と関係するように書かれており、同様の説明をしているところが多い。


しかし阪下圭八説を元に『古事記』の説明を素直に信じるならば、「気比(ケヒ)」は「カヘ」が変化したものであって「御食(ミケ)」とは何の関係もない。もちろんこれはダジャレであって気比の本当の由来ではないと考えられるけれども。


一方、『日本書紀』には「角鹿笥飯大神」とあり「笥」とは食器のことだから、『古事記』の「御食津大神」と考え合わせると、「御食国の神」という意味ではないかと一応は考えられる。


とはいえ「気比」の語義が本当にそれでいいのかということは考えてみる必要があると思う。


俺が前々から気になっているのは「気比」と書いて「きび」と読むことも可能ではないかということ。すなわち「気比」と「吉備」には何か関係があるのではないかということ。


(つづく)