八幡神は「継体王朝」の皇祖神?

連日sumita-m氏のエントリーを取り上げていて何かストーカーっぽくなっちゃってるけど興味深い記事なのだから仕方がない。


平野神社 - Living, Loving, Thinking


岡野友彦『源氏と日本国王』に以下の記述があるという。

(前略)古代の皇統は、武烈天皇の代と称徳天皇の代の二度、直系相続が断絶している。その際、武烈天皇の後を継いだ継体天皇や、称徳天皇の後を継いだ光仁天皇といった、しばらく皇統から離れていた「王氏」が皇位に即くにあたり、それはいわば「継体王朝」「光仁王朝」ともいうべき新たな皇統が始まるものと意識され、その結果、その新たな皇統の祖先神が、第二、第三の皇祖神として、第一の皇祖神=天照大神を中心とする皇室祭祀に付け加えられていったらしい。とすると、神功皇后応神天皇を御祭神とする八幡宮は、恐らく「継体王朝」によって付け加えられた第二の皇祖神、百済系の渡来神を御祭神とする平野神社は、「光仁桓武王朝」によって付け加えられた第三の皇祖神と考えられよう(略)

以上のことから、平野社もまた八幡宮と同様、本来は皇族の祖先神であったものが、王孫=皇親賜姓氏族全体の氏神として源氏や平氏氏神となり、最終的にはその代表者たる源氏長者によって管理されるようになっていったことが明らかである。(pp.74-75)


しかしながら、平将門の記事を書いたときに言及したように、

八幡神応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[3]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇八幡神と習合し始めたと推定される[3]。

八幡神 - Wikipedia
とあり、「継体王朝」時代に応神天皇八幡神の認識があったかは甚だ疑わしい。


史料的には

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。また社伝等によれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)とある。

宇佐神宮 - Wikipedia
とあり、応神天皇の託宣が継体天皇の子の欽明天皇の時代にあったことが記録されているけれど、事実ではないだろう。また事実ではないにしても、欽明天皇の時代に出現したとされることと、「継体王朝」の祖が応神天皇とされていることとに関係があるかのかといえば、関係なさそうに思われる(検証してみる価値は無くは無いとは思うけれど)。



ところで、八幡神応神天皇という認識が無かったとしても、継体天皇応神天皇の5世孫であるからして、応神天皇を皇祖として強く認識していたかというと、それもまた疑問。


なぜなら『日本書紀』には、継体天皇6年に任那4県を百済に割譲するという出来事が記されているから。


この際、物部麁鹿火(もののべのあらかい)は百済に勅を伝える使に指名されたが、妻に「住吉大神応神天皇に授けた国を割いて他国に与えたら後世長く避難を受けることになる」と諌められて仮病を使って辞退したとある。また継体皇子(安閑)は「応神以来の国を簡単に与えてしまっていいものか」と百済と交渉しようとしたが百済は取り合わなかったとある。


安閑は応神天皇を意識していたとはいえるかもしれないけれど、それは継体王朝の皇祖だからではなく、物部麁鹿火などと同意見だったということに過ぎないと思われ。問題は継体天皇の方で、任那4県割譲などということはただでさえ大事であるのに、さらに応神を皇祖として重視していたとするならば、それがたとえ尤もな理由によるものだったとしても、ためらうべきことなのではないのかという気がする。


もちろん『日本書紀』が史実を伝えているとは限らない。限らないけれど、ではなぜ継体天皇の時代にこの事件があったと記すのかという問題が出てくるように思われる。


※ なお八幡神(応神)が出現したとされる欽明天皇32年は欽明治世最後の年であり、この年天皇新羅を討って任那を復興せよと皇太子に遺言した。この二つの出来事には密接な関係があるのではないだろうか。