応神天皇と気比大神(その3)

応神天皇と気比大神(その2)のつづき


気比大神の話 - 私的な考古学 - Yahoo!ブログ
この記事で言及されている西郷信綱の『古事記注釈〈第1巻〉』 (ちくま学芸文庫 2005〜2006)は元は平凡社で1975〜1989に出版されたものだった。
西郷信綱 - Wikipedia


またそこで引用されている阪下圭八氏の「魚と名を易た話」が掲載されている『月刊百科』275号は同じく平凡社から1985年に出版されたものだった。


つまり、今から20年以上前に発表された説なのだが、俺は今まで知らなかったのだった。


ウィキペディアにも載ってる。

なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする[1]。

氣比神宮 - Wikipedia


なお、この話の原型が太子が魚を賜った話だという説は吉井巖氏が1967年に既に発表しているそうだ。
古事記』仲哀天皇段の「名易え」説話 - tobemb1 | ブクログのパブー


この論文の筆者の前川治氏は、

 以上、「名易え」説話に関しての主要な研究とその成果をまとめてみると、「名易え」は、太子の成人儀礼として位置付けられるという事で見解が共通しており、「名易え」が角鹿で行なわれた理由として、神功・応神の先祖との関わりがみられる事などをあげる事ができる。しかし、なぜ「名易え」を行なったのかについては、太子自身の改名、太子の名と気比大神の名の交換、あるいは気比大神の魚と太子の名の交換などといった諸説がある。その原因は、「名易え」の後の太子の名と気比大神の名について不明である事にあろう。

と指摘している。


だけど、俺はこの説話は「地名・神名由来譚」であって、深い意味は無いのではないかと思わずにはいられない。