わかんるり

同じ人の記事を続けて、しかも批判的に取り上げるのはどうかとも思うんだけれど、どうしても気になるので。

「わかんるり」とは何か。クラモチ皇子の言葉: 保立道久の研究雑記

 アニメーションの「かぐや姫の物語」で、クラモチ皇子が、蓬莱島の天女に対して「私はうかんるり」と発言したという部分があった。

 この「うかんるり」という言葉は正しくは、「わかんたふり」であるということは『かぐや姫と王権神話』で述べた通りである。それは隋書に「太子」のことをいうとでてきて、10世紀以降だと『源氏物語』にでてくる。そして、8世紀には奈良の長屋王家の木簡に「若翁」とでてくる。
 
 問題は、この「わかんとほり」=若翁という言葉の意味であるが、下記の長い文章の末尾にあるよう7に、それは「若いタフレモノ=狂者」という意味である。『字鏡集』という辞書に「翁」の読みとして「タフレヌ」があり、「タフル」は普通は「狂」と書く。「タハク(姦・淫)」「タハブル(戯)」「タハゴト」も同じ意味。

 つまり、皇子というのは、あぶない人、恣意的な行動をすることが許されている人であるという訳である。実際、『日本書紀』『古事記』に登場する皇子たちは激情的で、いわゆる「聖なる狂気」を思わせる場合が多い。

 『竹取物語』でクラモチ皇子が天女に対して「私はわかんたふり」といったというのは、いわば「俺は王子だ、何するかわからんぞ」とすごんだということであろう。

少し長いけれど重要なことなので引用。


俺は「わかんるり」について全く興味の範囲外だったので調べて見た。原文はこうなっている。

れや我が求むる山ならむと思ひて、さすがに恐ろしくおぼえて、山のめぐりをさしめぐらして、二、三日ばかり見歩くに、天人のよそほひしたる女、山の中より出て来て、銀(しろかね)の金椀(かなまり)を持ちて、水を汲み歩く。これを見て、船より下りて、「この山の名を何とか申す」と問ふ。女、答へて言はく、「これは蓬莱の山なり」と答ふ。これを聞くに、うれしきこと限りなし。この女、「かくのたまふは誰ぞ」と問ふ。「我が名はうかんるり」と言ひて、ふと、山の中に入りぬ。

『竹取物語』の原文・現代語訳6

で、この現代語訳によると、この部分は

この天女は、「このような事を聞くあなたは誰ですか?」と聞いてきました。そして、女は「私の名前は、うかんるりです」と答えて、そのまま、山の中へと入っていきました。

となっている。つまりクラモチ皇子の名前ではなくて女の名前が「うかんるり」なのだ。


で、さらに調べると
うかんるりメモ
という記事がある。

A 「かくのたまふは誰ぞ」と問うているのは「この女」
B 「かくのたまふは誰ぞ」と問うているのは話し手である皇子

という二つの解釈があるそうだ。保立氏の解釈はAということになる。一方上の現代語訳の解釈はといえば、こっちもAの解釈である。違うのは「我が名はうかんるり」と言ったのが保立氏は皇子という解釈であり、現代語訳の方が女だということだ。


なお、上の記事によると、

一般に手にすることが出来る現代語訳など、出版物においては圧倒的に解釈Bが多数を占める

なんだそうだ。実にこんがらがっている。


さて、俺がどれを支持するかというと、上の現代語訳、すなわち「かくのたまふは誰ぞ」と問うたのは女であり、また「我が名はうかんるり」と言ったのも女であろうと思うのである。


なぜなら、皇子が「我が名はうかんるり」と言ったのであれば、「言ひて」ではなく「答えて」になるだろうと思うからだ。さらにいえば「うかんるり」という意味不明の名前は皇子の名よりも天女の名前にふさわしいだろう。


もっとも保立氏は「うかんるり」は「わかんたふり」で「太子」を意味するという、かなり飛躍した説をお持ちのようであるからそうなるのだろう。しかしそれは妙な話ではないだろうか?というのも保立氏の解釈によれば皇子は「我が名は太子」と答えたことになるからだ。「太子」は人名ではない。俺の認識では「わかみたふり(『隋書』)」も「わかんどおり(『源氏物語』)」も人名ではない。「我が名は」とあるからには人名でなければならないのではないか?いや俺はド素人だから「我が名は太子」とか「我が名は大臣」とかいう言い方があるんだったら教えてほしいんだけれど…


その点についての説明がないので、どういうことなのか理解に苦しむが、たとえば漫画のキャラクターで名前がそのキャラの属性を表現しているケース(藤村甲子園とか真田一球とか)があるから、それと同じように皇子の名前が「太子」を意味しているということだろうか?


ただ、そもそも俺の認識では昔の人は他人に名前を知られるのを忌避する慣習があるはずだから、「誰ぞ」と聞かれて「我が名は」と答えるのが不自然であるように思われる。そういう点からも「我が名は」と言ったのは皇子ではなく、蓬莱山にいる天女の方だろうと考えるのである。


※ あるいは天女には「名前」を教えたけれど、竹取の翁には知られたくないのでその部分を省略したということかもしれないが。