応神天皇と気比大神(その6)のつづき
吉備津神社に伝えられた温羅伝説
⇒吉備津神社縁起:概略
特に興味深いのは、
温羅はついに命の軍門に降り、「これからは吉備冠者を名乗るが良かろう。」と、その名を命に献ったので、それから命は吉備津彦命(きびつひこのみこと)と改称された。
というところ。これはヤマトタケル(ヤマトヲグナ)が川上梟帥(カワカミノタケル)から名を譲られたという話に類似している。
⇒川上梟帥 とは - コトバンク
しかし「吉備」と「気比」に関係があるとすれば『古事記』の応神とイザサワケとのナ(名・魚)の交換の説話との関係がどうしても気になる。
吉備津彦命の元の名は五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)で、「五十」は「イソ・イサ」とも読むから、伊奢沙和気(イザサワケ)と名前が似ているようにも思う。さらに兵庫県の加古川は吉備津彦ゆかりの地だが、日岡神社の祭神は「天伊佐佐比古命」(アマノイササヒコノミコト)でありイザサワケと極めて似ている。
⇒古代吉備の東縁・加古川
なお温羅は「百済の皇子」だが、『日本書紀』には笥飯(ケヒ)に「意富加羅国の王子」の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が来たことを載せている。
で、『書紀』によると、垂仁天皇がこの都怒我阿羅斯等に、先皇崇神の「ミマキイリビコ」の名前をとって汝の本国の名を改めよと言い、そのため「ミマナ」と呼ぶという地名由来譚を載せている。
これらが無関係とは到底俺には思えない。