応神天皇と気比大神(番外編)のつづき
気比と吉備の関係は?
⇒吉備津彦神社(玄松子の記憶)
に吉備津彦神社のチラシを紹介している。
当神社は朝日の宮と称され、吉備之国最古の大社で古代信仰太陽、月星、泉、磐座、巨木を仰ぎ、山は神体山にして巨大な磐座磐境を有し超太古時代は気比太神宮、吉備社、吉備津神社、吉備津宮、朝廷直属の一品一宮の社宮として朝廷は勿論、諸民にも崇められて来ました。
超太古時代は「気比太神宮」と呼ばれていたという。超魅力的な話ではある。その根拠は
(注)当社が昔、気比太神宮と言われていたことを伝承者が伝えていましたが、古文書を松田氏の部下に焼かれる前までは、上記の社名があったと思います。
ということらしいけれど、それが事実だとしても、中世にそのような伝承が発生したということかもしれず、本当に太古に「気比太神宮」と呼ばれていたのかは保留しといた方が賢明だろう。
しかし、なぜ「キビ」に「気比」の字を当てたのかというのは、仮に中世の伝承だとしてもそれはそれで興味深いし、この話が信用できないとしても、それで「吉備」と「気比」の関係が否定されるというものでもないだろう。
なお、吉備の「気比」について、「神奈備」の瀬藤禎祥氏は、
当社では古代、気比比売大神、気比大明神の名で、天照皇大御神、月讀大神、素戔嗚大神、建日方別大神をお祀りしていたように100円で頂いた由緒書きにはある。
気比、敦賀にその名が残っているが、食物のことであろう。黍の國の豊漁豊穣を願った祭りの場からの発展した神社ではなかろうか。それが大和に王権が確立された後には、記紀神話にのって大和王権から派遣された皇族将軍である大吉備津日子大神をして吉備国の統治者の祖先と位置づけて、吉備一族の宮廷での立場を高めたのであろう。
⇒吉備津彦神社 岡山市一宮(神奈備)
と「食物のことであろう」としている。
しかし、
⇒吉備の語源・黄蕨について(宝木伝説)
には、吉備の語源として「黍」「君・公」・「黄蕨」説などがあるが「気比=食物」説は見当たらない。
「気比」と「吉備」に関係があるとするならば、どちらも食物の意味であるか、逆にどちらもそうではないということになるけれど、そういう視点での考察はほとんどなされていないようだ。
(つづく)