ファシストを招くもの

池田信夫 blog : ファシストは「正義の味方」の顔をしてやってくる - ライブドアブログ


前半部分は同意する。


しかし、後半部分の

もう一つの共通点は、感情の論理に対する優越である。蓑田は「人生の原理はわれらの実人生に於ける内的直接的経験によっての心証革新であって自然科学的抽象概念ではない」と、信念が科学に優越するとした。これは「科学的には微量放射線に危険性はなくても子供が心配だ」といって「リスクゼロ」を求める放射能ママと似ている。

ファシストは私利私欲のためにやったのではなく、正義の味方だった。現代からみると蓑田の主張は荒唐無稽だが、当時は天皇機関説を排撃する彼の主張は、天皇の尊厳を守る正義の論説として世論の圧倒的な支持を受けたのだ。

非科学的な「正義」を語り、「原子力村」を攻撃する山本太郎喝采する自由報道協会やBLOGOSなどのウェブメディアは、『原理日本』に似てきた。幸いそれは30年代のように戦争という形の破滅にはつながらないが、無意味な除染に数兆円の税金を浪費し、原発を止めて電力コストを数兆円引き上げ、日本経済の破滅を早めるだろう。

は、その通りかもしれないが同意できない。なぜなら、俺は科学の絶対的優位に同意できないからだ。


「科学的には微量放射線に危険性はなくても子供が心配だ」というのは自然な感情だ。そういう感情を見下し、軽蔑し、嘲笑する科学絶対優位主義のインテリがいる。もちろん、そんな人ばかりではない。科学者の中にもきちんとそれを受け止めようとする人はいる。そういう感情と科学の間にどう折り合いをつければ良いのか試行錯誤している人はいる。


しかし、そういう感情をばっさり切り捨てて躊躇のない人達も相当の勢力を持っている。その一方で正当な科学に切り捨てられたと感じて見切りをつけて、「異端の科学」に吸い寄せられてしまう人達がいる。もちろん誰もがそうなるわけではない。実のところそういう人達もまた「科学」に絶対的優位を認めているから「異端の科学」やそれに類似した絶対的なものに引き寄せられるのだ。科学絶対優位の下では科学と感情の葛藤など必要なく物事は単純で楽なのだ。