応神天皇と気比大神(その2)

応神天皇と気比大神(2008-08-22)のつづき


応神天皇気比神宮の祭神、去来紗別神(いざさわけのかみ)と名前を交換したという神話の謎。


日本書紀

一云。初天皇為太子。行于越国。拝祭角鹿笥飯大神。時大神与太子名相易。故号大神曰去来紗別神。太子名誉田別尊。然則可謂大神本名誉田別神。太子元名去来紗別尊。然無所見也。未詳。

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(一説によると)応神天皇の元の名はイザサワケで、笥飯大神(ケヒノオオカミ)の名がホムタワケだったことになる。しかしながら『書紀」には、応神天皇は生まれた時に腕の肉が「鞆(ホンダ)」のようであったので誉田(ほむた)天皇というとあるのだから、この話と辻褄が合わない。


さらに『古事記』では、夜の夢にイザサワケ大神が御子の名と吾が名を交換したいと申し出て、それを承知すると、神は「翌日浜に行きなさい、名を変えた幣を奉りましょう(獻易名之幣)」といった。翌日浜に行くと鼻の傷ついたイルカがいた。御子は「我給御食之魚」といって、神の御名を称えて御食津(ミケツ)大神と名付けたとある。


不思議なのは、名前を交換したとあるにもかかわらず、御食津大神と名付けたとあることで、とても不自然だ。また『書紀』と同様に名前を交換したのなら応神天皇の名前が問題となる。イザサワケ大神と交換したのなら応神の名がイザサワケになるはずだし、『書紀』を参考にするなら応神の元の名がイザサワケとなるけれど、こちらもそのような記述は無く、応神の名はオオトモワケまたはホムダワケとありオオトモワケの名の由来は腕の肉が「鞆(トモ)」のようだったからとある。


この謎について俺は前の記事で、『この話の原型は、神が皇太子に名前を付けて欲しいと頼んで、皇太子が「御食津大神」と名付けたという話であって、「名前の交換」という話は後に何かの間違いで「別の話」が混入してしまったのではないか』と書いた。



それに関連して、今日読んだ記事に興味深い論文が紹介されていた
気比大神の話 - 私的な考古学 - Yahoo!ブログ

          阪下圭八「魚と名を易えた話―古事記・説話表現の一様相」の検討
                             2011.12.14 北條芳隆
本論の要旨
 この話は「名」と「名」が「易へ」られた話ではなく「名(ナ)」と「魚(ナ)」が「易へ」られた話と読むべきであると主張する。つまりイザサワケの神は、当初から自分の「魚(ナ)」と交換に新しい自分の名前をオオトモワケから頂戴することを欲しており、取り次ぎ役の建内宿祢は意図を取り違え「名(ナ)」の交換であると誤解したものの、オオトモワケは神の真意を理解したために正確に対処した。その結果鼻先に傷がついた(「魚(ナ)」に転じた)海豚と交換に「御食大神」の名前を贈答し、それによって「名」と「魚」の交換は完了したと読むべきだと主張する。さらに三度も登場する「易」が鍵言葉であり、ケヒもカヘと同義に用いられる事例からみて、こちらにも趣向の二重性が認められるとする。

「名」と「魚」の交換というのは目から鱗だ。おそらくその通りだろう。すごいと思う。



ただし、それを採用した後の解釈には納得がいかない。ブログ主の北條芳隆教授も指摘しているように「あくまでも神の台詞は名前の交換の申し出」だと考えられる。


しかしながら、今度は北條教授のいう「名(ナ)と魚(ナ)の語呂合わせをとらえて神の申し出を逆手にとりつつ、御子が神の名を与えるという関係更新の成功譚」というのも納得できない。むしろ阪下説の「我が名を魚との交換のもとで御子による命名のもとで易えたい」の方が筋が通っているように思われる。


ここで、「我給御食之魚」で「ミケの魚(ナ)」が神から御子へ贈与され、その返礼としてミケの名(ナ)を御子から神へ贈与するという取引が成立しているわけですよね。


それは御子が逆手に取ったというよりも、当初からその予定だったと考えるほうがしっくりくる。確かに「吾名欲易御子之御名」は名前の交換と解釈するより他はないように思われるけれど、それは『古事記』が既に本来の神話の意味を正確に記述することに失敗している、もしくはこの時点で既に本来の神話の意味が失われていて「名と名の交換」と解釈されていたということではないだろうか(『書紀』の編者も混乱に陥っていることから考えて後者ではなかろうか?)。


※ なお建内宿祢について。北條、阪下両教授とも建内宿祢が神と御子の間に入っていると考えているようだ。俺はは「御子の夢」ではないかと思うのだが、なぜ建内宿祢という解釈になるのかわからない。


※ あと本居宣長の解釈がどういうものなのか知らない。


※ 名前の交換と解釈されたのは、応神天皇の皇子仁徳と武内宿禰の子の木菟宿禰の名前を交換したという話があるから、それに引き摺られたのかもしれない。