かぐや姫は月で罪を犯したというのが大方の意見らしい。
どうしてそう解釈されることになったのかは不明だが、中国の『太平広記』に天上界で犯した罪の償いに地上界に流された女仙の話がある。
⇒『竹取物語』の物語性 : 「罪」を中心に(北京共同ゼミ)
これが根拠の一つになっているのだろう。
しかし、かぐや姫自身は「昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける」と発言しているのだ。それを無視してはいけない。
ところで、貞応2年(1223年)成立と考えられる『海道記』という紀行文に「かぐや姫伝説」が記載されている。そこには、
この姫は先生に人として翁に養はれたりけるが、天上に生れて後、宿世の恩を報ぜむとて、暫くこの翁が竹に化生せるなり。
⇒UVa Library Etext Center: Japanese Text Initiative
と書かれている。この「かぐや姫」は竹の中にいたのではなくて、竹林の中にあった鶯の卵から生まれている。『竹取物語』との関係はわからない。
だが、前世の恩返しとして翁のもとに現れたというのは、「昔の契りありけるによりて」と符号する。
『竹取物語』においてかぐや姫が罪を犯したと主張しているのは王(とおぼしき人)であって、かぐや姫の証言と食い違っている。そこをよくよく考えなければならない。
で、俺は思うんだけれど、両者の証言の違いというのは、現代の漫画やアニメにおいてよくある「お嬢さま」と「執事(じい)」の意見の食い違いと同じようなものではないのだろうか?
つまり、お嬢さまが主人公を含む一般ピープルと遊んでいると執事がやってきて、
「お前達、お嬢さまから離れなさい、お嬢さまはお前達のような下々の者と一緒にいていいようなお方ではないのですぞ」なんて言って、それに対してお嬢さまが
「いいのよ、わたくしがこの方達と一緒に遊びたいと望んだのですから」なんて答えて、じいが「お嬢さま、おいたわしや…」とかいってハンカチで涙を拭いたりして、
「お嬢さま」はお屋敷にいるのが退屈で普通の遊びがしたいのに、「執事」の目から見れば一般人に無理やり拉致されて「お嬢さま」が困っているように見えてる。
それと同じで、かぐや姫は罰で翁のもとに来たのではなくて望んでいたこと。それが「王」の目から見れば、高貴なかぐや姫が下賎な翁のもとにいるのは罰にしか見えない。罰があるのはかぐや姫が何か罪を犯したからに違いない(刑法を犯した罰とかいうことではなく天罰的なもの)。そう考えたということなのではないだろうか?
※ なおこの場合は月の「王」が罰を下したのではなくて、「天」(か何かは不明だけれど「王」よりも上位の存在)が下した(と「王」が考えている)ということになるから、「王」が姫の罰の期間が終ったと決めたのではなくて、「王」としては一刻でも早く月に連れ帰りたかったのだが、それでは「天」の意志に反するからとずっと待ってて「もうそろそろ天も許してくれるだろう」と判断したということになるだろう。