和を以て貴しとなす

池田信夫 blog : 「和の心」は日本の伝統ではない
で知ったのだが小林正弥という人が
「人質事件、首相は『和』の心を取り戻して発信せよ」
という記事を朝日新聞のWEBRONZAに書いている。これも会員登録しないと全文読めないのだが、池田信夫 blogによれば

「もともと日本は、聖徳太子が17条の憲法で『和を以て貴しとなす』と定めたとされているように、国号を『大和の国』としており、『和』の心を文化的に大事にしてきた。[…]戦後日本は再び『和』の心を取り戻し、平和憲法のもとで、平和主義を貫き、海外の戦争には軍事的に加わらない方針を貫いてきた」

という内容だそうだ。


聖徳太子といえば「17条の憲法」が有名なんだろうけれど、太子の事績はそれだけではない。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

聖徳太子 - Wikipedia


(『日本書紀』によれば)聖徳太子は宗教を巡る対立で敵の物部守屋を滅ぼした最大の功労者である。


よりにもよって、平和主義云々の話で聖徳太子を持ち出すとは…



なお「17条の憲法」についていえば

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

十七条憲法 - Wikipedia


これはどう考えたって、一方にだけ和を求めたものではない

上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ

十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き
という意味である。逆に言えば、一方が「和の心」を持っていても、もう一方がそうでなかったら成就は困難だってことになるでしょう。その場合でも「和の心」を貫かねばならないと言っているようには思えないのであって、そう解釈しなければ物部氏と戦争したこととの整合性が取れないであろう。