「あざい」か「あさい」か(その8)

日本書紀』 「(巻第五)崇神天皇」の「浅茅原」。『古事記』には出てこない。『万葉集』には

  • 「淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞」
  • 「山高 夕日隠奴 淺茅原 後見多米尓 標結申尾」
  • 「茅花抜 淺茅之原乃 都保須美礼 今盛有 吾戀苦波」
  • 「淺茅原 苅標刺而 空事文 所縁之君之 辞鴛鴦将待」
  • 「淺茅原 茅生丹足踏 意具美 吾念兒等之 家當見津」
  • 「淺茅原 小野尓標結 空言毛 将相跡令聞 戀之名種尓」
  • 「春日野之 淺茅之原尓 後居而 時其友無 吾戀良苦者」

という歌がある。「淺」は「淺」としか書いてないので読みはわからない。これを「あさ」と読む根拠はちゃんとあるのだろうけれど不勉強なので知らない。


次に「(巻第六)垂仁天皇」の「胆狭浅大刀(いささのたち)」垂仁天皇3年に新羅王子アメノヒボコが日本に持ってた神宝。

細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。

アメノヒボコ


垂仁天皇88年、天皇に献上した神宝は

羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。日鏡一面。熊神籬一具。

「出石」という宝は献上されなかったという。垂仁天皇3年と比較すれば「出石刀子」「出石槍」「胆狭浅大刀」が足りない。そこから考えるに「胆狭浅(いささ)」=「出石(いずし)」ではないだろうか?もちろん書記の段階で両者は書き分けられているのだが。本来「出石刀子」「出石槍」「胆狭浅大刀」は同じ物を指していたのだが伝承によって呼び方が異なり、別の物として認識されたのかもしれないとも思う。その他の可能性もあるけれど。


古事記』では、応神天皇記に記される。

故其天之日矛持渡來物者。玉津寶云而。珠二貫。又振浪比禮【比禮二字以音。下效此】切浪比禮。振風比禮、切風比禮。又奧津鏡、邊津鏡。并八種也【此者伊豆志之八前大神也】

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/KOJIKI2.TXT
神宝は書記と異なる。これらを「伊豆志の八前の大神」という。兵庫県豊岡市の出石神社の祭神のこと。


「伊豆志」の「志」は「し」で疑いないので、「胆狭浅」が「出石」が変化したものなら「浅」は「あさ」の可能性が高い。ただこれだけでは確実とは言えない。なお兵庫県加古川市日岡神社の祭神は「天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)」。関係があるのかはわからない。「いささ」を「伊佐佐」と表記しているのを考えると、「胆狭浅」がなぜ「胆狭狭」と表記されなかったのかは多少気になる。


次に「淡路嶋出浅邑」。「いてさむら」と読む。

仍詔天日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。

天皇アメノヒボコに対し「播磨国宍粟邑」「淡路嶋出浅邑」の二つの邑にお前の意に任せて居住せよと詔したという。これもアメノヒボコに関わること。であるなら「出浅」も「胆狭狭」「出石」と関係あるのではないだろうか?これを「いてさ」と読む根拠はこれも不勉強なので知らない。「いざさ」とも読めるのではないのだろうか?


なおこれもアメノヒボコ(都怒我阿羅斯等)と関係があると考えられる福井県敦賀市の気比子宮の祭神は「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」である。


次に「稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)」


長くなったので「つづく」