「あざい」か「あさい」か(その9)

次に「稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)」


日本書紀垂仁天皇15年に「次妃薊瓊入媛生池速別命・稚浅津姫命」とある。すなわち稚浅津姫命は垂仁天皇と薊瓊入媛の間に生れた。


薊瓊入媛は「あざみにいりびめ」と読む。漢字で見れば全然違うけれども娘は「あさ」で母は「あざ」


古事記』には

沼羽田之入日売命の弟、阿邪美能伊理毘売命を娶りて、生みし御子は、伊許婆夜和気命。次に阿邪美都比売命<二柱>。
古事記』(新編日本古典文学全集)

又娶其沼羽田之入日賣命之弟。阿邪美能伊理毘賣命【此女王名以音】生御子。伊許婆夜和氣命。次阿邪美都比賣命【二柱。此二王名以音】

古事記中卷
とある。


「薊瓊入媛(あざみにいりびめ)」は「阿邪美能伊理毘売命(あざみのいりびめのみこと」
「池速別命(いけはやわけのみこと)」は「伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)」。
「稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)は「阿邪美都比売命(あざみつひめのみこと)」


古事記』では母も娘も「あざ」。


日本書紀』の「淺」は「あさ」と読むのだろうから、古代においても「あさ」という発音と「あざ」という発音が並行してあったように思われる。
※なお「はや」も『古事記』では「ばや」になっている。


「あざ」「あさ」の一方だけしか使わない人達がいた可能性もあるけれど、『日本書紀』では「あざ」と「あさ」を使いわけている。


※ ちなみに『古事記』における「淺」の使用例は「男淺津間若子宿禰王(をあさつまわくごのすくねのみこ)」=「允恭天皇」のみ。『日本書記』では「雄朝津間稚子宿禰天皇」。