迹見首赤檮(その8)の続き。
物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)の伝説は「太陽を射る話」に源流がある。「太陽を射る話」の類話である「日招き長者伝説」は長者が没落する話であり、「太陽を射る話」もまた射手もしくは命令者が没落する。
以上のことから考えると、『日本書紀』の「守屋合戦」の描写は、ほとんどの(おそらく全ての)歴史研究者が考えているのとは異なる意味を持っているという結論が必然的に導き出される。
すなわち、合戦の勝利を祈願した聖徳太子と蘇我馬子は没落する運命にあるということだ。
そして事実、聖徳太子の子である山背大兄王は一族もろとも蘇我入鹿に滅ぼされ、蘇我馬子の子の蘇我蝦夷と孫の入鹿は乙巳の変により滅び蘇我氏は没落した。
⇒乙巳の変 - Wikipedia
上宮王家と蘇我氏の運命は、守屋合戦において迹見首赤檮が物部守屋を射落とした時に決したのだ。
このような解釈をした人が今までいただろうか?おそらくいないだろう。しかし、こう解釈するのが圧倒的に筋が通っている(といってもどうせ納得してもらえないのだろうけれど)。
だとすれば、この守屋合戦の描写が出来上がったのは、645年以降でなければならない。
だからといって、大山誠一氏が主張するような、藤原不比等や長屋王や道慈が「大宝律令で一応完成した律令国家の主宰者である天皇のモデルとして、中国的聖天子像を描くこと」を目的として作り上げられたものでないことも、没落する運命の聖徳太子伝説を作り上げるはずがないから、ありえないのだ。
では一体誰がこの伝説を作ったのか?一番可能性があるのは中大兄皇子と中臣鎌子を中心とした大化の新政権であると思われる。中大兄皇子と神事・祭祀をつかさどった中臣氏の鎌子は、聖徳太子と蘇我馬子の業績を認めつつも、大和における仏教の急速な普及に危惧を抱いていたのではなかろうか?それが最も「長者伝説」に符合する考え方だ。
大山説が否定されるのはもちろんだが、従来の聖徳太子研究は根本的に見直す必要があるのだ。
はっきり言って俺はこの考えが99%正しいと確信している。しかし、たぶん受け入れられないだろう。だがいつか認められる日がくることを期待している(でなきゃやってられない)。
(おわり)
(追記1/19 17:45)
あと肝心なことを書き忘れていたけれど、物部氏の祖はニギハヤヒ。
⇒ニギハヤヒ - Wikipedia
『先代旧事本紀』では「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」という。太陽の神格化とみていいだろう。