佐々木 俊尚の(無自覚であろう)ブーメラン

「ネトウヨ」「パヨク」の罵り合い、そろそろやめてみませんか? | 文春オンライン

この記事に書いてあることは一見まともに見える(そうでない部分もあるが)。佐々木氏にしてみれば良いこと書いたと満足していることだろう。


だが、この記事にはブーメランがある。

 そもそも政治というのは、「折り合い」だ。Aという主張とBという主張があって、議論する。その議論の中で、Aの人はBの人がなぜBという主張をしているのかを学び、Bを少しずつ理解する。Bの人もAの主張を学んで、理解する。さらに、AにもBにも入らないCという少数者や少数意見があることを知り、なぜそれが見過ごされていたかも学ぶ。そういう議論を踏まえた上で、現実的な結論をもたらすために多数決をする。

これには多くの人が同意するだろう。議会制民主主義の基本であり、日本人の多数が議会制民主主義を支持しているのだから。もちろん俺も異論はない。「Aの人はBの人がなぜBという主張をしているのかを学び」全くその通りであり、一昨日触れた小林よしのりの「自民党は保守ではない。あれは、単なる対米追従勢力です」みたいな言い方は、もちろん「相手にそういうつもりはないだろうが結果としてそうなっている」という趣旨の批判なら良いが、自己の敵を悪意によっているとするのはこの精神に反している。小林よしのりの脳内ではそういうつもりは無い可能性も僅かながらあるが、明らかに説明不足であって言い訳が通用するものではない。


で、そういう精神を肯定する者であれば、当然のことながら「罵り合いをする人達はなぜ罵り合いをするのか」ということを理解することが必要でろう。その点について佐々木氏はどう考えているのか。それらしいのは、

 さて、相手と自分たちを敵味方に分けて罵り合うような党派的な行動は、民主主義の理想の姿からはほど遠い。そもそも党派的な手法は、もとをただせば古典的なマルクス・レーニン主義の方法論だった。資本家階級と労働者階級は決して分かり合えることなどないので、資本家は徹底して叩きのめし、殲滅するしかない。そのためには党派をつくり、革命的な行動をすべきである、というわけだ。

 革命のための手法で使われたことでもわかるように、党派は「敵か味方か」「白か黒か」をはっきりさせるので、人を熱狂に駆り立てる。ゆえに人々を動員しやすく、運動は盛り上がる。

だが、この方法を「民主主義の理想の姿からはほど遠い」とし「もとをただせば古典的なマルクス・レーニン主義の方法論だった」とする。まるで「マルクス・レーニン主義」は民主主義ではないかのような言い草である。しかしながらマルクス・レーニン主義を信奉し(暴力・非暴力)革命を目指すする人は今の日本でも少なからずいるのであり、彼らの中にはそれが「それこそが民主主義のための正しい行動」だと、確信している人もいるに違いない。いわゆるネトウヨの中にだって似たような思想を持つ者がいるだろう。そもそも民主主義など悪だと考えている人もいるだろう。要するに「彼らは彼らの思想の元にその行動原理に従い行動している」可能性は十分にあるわけだ。


もちろん異質の人々に、行動ではなく思想そのものを「こちら側」へ変えるべく転向を呼びかけるという意識ならば問題ない(あるいは単純に「お前の都合なんて知ったこっちゃない、こっちが迷惑するからやめろ」というのでもよし)。だが佐々木氏の主張はそのようなものには見えない。彼らを外の空間にいる異質の人としてではなく、同じ空間にいる自分と同質の人だとの前提の元に説得しているように見える。もちろん議会制民主主義は日本において多数の人々が支持しているので、それは「常識」(「空気」と呼んでもよいだろう)のようになっているかもしれないが絶対的なものではない。


リベラルはそういうことに無自覚なの人が多い。ここ数日読んだリベラルの主張にもこの手のものがいっぱいあった。中島岳志によるとリベラルの反対語はパターナリズムなのだそうだ。椅子からずり落ちそうになった。「価値を押し付ける」のは左派リベラルが常套的にしていることであろうに、よりにもよって反対語とは恐れ入る。しかし彼らにとっては自分達のやってることは「価値を押し付ける」ことではないのだろう。そう本気で思っているのだろう。その無自覚こそがリベラルの危険なところなのだ。


※ あるいは自分達がやっていることはパターナリズムではないということを理論を駆使して正当化(こじつけともいう)してるのかもしれないが。