自民党は保守ではないかもしれないが小林よりのりは全く保守ではない

「自民党は保守じゃないんですよ」 漫画家・小林よしのりが応援演説で語ったこと

既に書いたようにリベラルの定義は様々だが、日本で一般に呼ばれるところのリベラルとは「大きな政府」を志向する人達。政府の介入に肯定的な人達。基本的に日本の左派は所得再分配の政策を支持。一方、自民党は公共事業重視のケインズ派。今は知らないが俺が大学にいた頃はそれぞれマルクス経済学・近代経済学ケインズ経済学)と呼ばれて、これが左右の対立。だがケインズアメリカでは左派でリベラルとされる。

よって自民党はその基準では保守ではなくリベラル。「保守」と呼ばれ、あるいは自称するのは、社会・共産主義に対して資本主義を「保守」するということと、天皇制を「保守」するということだろう。


だから自民党が保守ではないと言われれば、それは決して間違ってはいない。


しかし、小林よしのりがいう「自民党は保守じゃない」とは

それはね、保守じゃないからですよ、自民党が。自民党は保守ではない。あれは、単なる対米追従勢力です。

アメリカについて行って戦争しろと。それだけですよ。自衛隊自衛隊のままでですよ?集団的自衛権に参加させるんですか?こんな恐ろしいことはないですよ。

枝野さんは安保法制の議論のときに個別的自衛権を強化しろと言った。実はこれがね、保守の考え方なんですよ。

我が国を、我が国で、個別的自衛権で守る。これが保守の考えなんですよ。

と主張する。保守か保守でないかを区分するのに、そんな理由が持ち出されるのは、どんな根拠によるものだろうか?さっぱりわからない。


強いて根拠を探せば、保守思想は他者への介入に積極的ではないということがある。革新リベラルは、ここで何度も書いたように絶対的な真理・普遍的な価値観を行動原理にする傾向がある。したがって人類皆兄弟・地球市民という考え方から、他国において人権侵害行為が行われているというようなことに無関心ではいられない、だけでなく彼らを救うために地球規模で絶対的真理・普遍的価値観を普及させようとする動機が生じる。フランス革命の輸出・共産主義の世界革命などまさにそう。「ネオコン」は保守と呼ばれているが、トロツキズムスターリンの一国社会主義建設に反対し、世界革命による世界社会主義の達成を目指す)の系譜上にあり、アラブに民主主義国家を建設しようと積極的に介入した。これは本来の保守とは全く異なる思想である。ヨーロッパ諸国にもこういった傾向がある。安倍首相の「積極的平和主義」という言葉のニュアンスも、伝統的な保守の考え方とは反するものだとは言える。ただし言葉のニュアンスとしてはそういうものが感じられるが、基本的には平和維持のための国際協力であってイデオロギーの輸出的なものは見られない。とはいえアメリカがそういう行動を起こしたときに協力するという形で巻き込まれる危険性は否定できない。


しかし、これは俺が強いて根拠を探したものであって、小林よりのりがそういう意味で言っているのかといえば、何も根拠を書いてないのでわからないし、そういう意味ではおそらく無いのではないか。


で、自民党が保守か保守でないかはともかく、小林よりのりが保守でないのは明白である。


なぜなら保守は多様性を重視する思想であるから。


ここで、昨日書いた「多様性を重視する」とは何かという点が重要になる。リベラルのいう「多様性を重視する」とは「多様な存在に平等な権利を認める(または平等に規制する)」ということだと考えられる。しかるにその上位には絶対的な真理が君臨している。絶対的真理に服従する限りにおいては見た目が異なる様々なものを平等に扱うということである。絶対的真理に服従しない(できない)ものはその限りではない。ではどうするのかといえば、排除はなかなか難しいので「将来は絶対的真理に服従するはず」という予備軍のような扱いになり、それらを「啓蒙」しようとする。現実にはそれがさらなる軋轢を生むのだが、彼らにとっては正義なので意に介さない。


一方、保守の「多様性を重視する」とはそんな絶対的真理の存在など認めず、単に差異があるということを認めるということ。基本的にその差異があるものが自分たちに害を及ば差ない限り、自分たちも積極的には介入しないという方針。「ウチはウチ、ヨソはヨソ」という考え方。


保守はもちろん自分達に害が及ぶ場合は対応する。異なる価値観を持つものとは共存不可能だからだ(もちろん共存不可能といってもたとえば隣人と価値観が異なっていても生活に支障がなければ何ということもない)。ここが保守とリベラルの違いで、保守は異なる価値観とは「共存不可能」、リベラルは「可能」と考える。というとリベラルの方が良さそうだが。リベラルの言う「共存」は絶対的真理の元での共存であり、すなわち実際には異なる価値観を持つものへ価値観の変更を強いているのである。しかし彼らの脳内では「あなたも私も人類共通の絶対的真理・普遍的価値観に服従するのだから平等だ」と考えているのである。そして自分とは直接関係のないものに対しても介入していこうとするのである。


小林よしのり

自民党は保守ではない。あれは、単なる対米追従勢力です。

とする。もちろんこれは自民党が「われわれは対米追従勢力です」と主張しているのではなく、小林よしのりから見ればそう見えるという話である。すなわち小林の価値観に過ぎないわけだが、ここで小林はそれを自分の価値観ではなく普遍的価値観であるかのように語っているのである。それが証拠に小林は「自民党がなぜ対米追従勢力なのか?」という説明を一切していない。それはあたかも当然の前提であるかのごとく話している。


これはリベラル脳とでもいうべき思考法である。相手の価値観を認めていないのである。相手にも言い分があるだろうが、それは自分の考えとは相容れぬものだというような思考ができないのがリベラル脳である。共通の価値観を両者が有していることを前提に自分は正しく相手は間違ってると考える思考法である。


同じような思考はここにもある。

えーと、わしはね、希望の党がリベラルを排除すると、そもそも全員入れる気は全くないと言ったときにね、なんなんだこれはと思ったんですよ。

だってね、自民党の中にだってリベラルな議員はいるんですよ?

それがリベラルの議員は全部排除するとか言ったら、これはもう極右政党になっちゃうじゃないですか。

希望の党が「極右政党」なのかはさておいて、極右政党だとなぜだめなのか?「排除」といっても別に政治活動をすることを阻止するという話ではない。単に価値観の異なる人が分かれたというだけの話だろう(もちろん選挙戦略上不利になったりすることはありえるが)。異なる価値観を持った人を一つにしようとするには、その人の持つ価値観を抑圧する必要があるではないか。右も左も譲歩するのだから平等だということだろうか?これもやはりリベラル的な発想ではなかろうか?


希望の党からリベラルを「排除」する。これは多様な価値観を重視していないことになるのか?それとも多様な価値観を重視しているからこそ、相手の価値観を認めているからこそ別れようということなのか?その受け止め方もまた保守かリベラルかで異なっているように思われるのである。