内田樹の正体はロールシャッハ・テストである

八紘一宇−田中智学−北一輝−岸信介−安倍晋三の「ギミック」の連鎖を切れ - kojitakenの日記


まず言いたいのは、リベラルが自分達と違う立ち位置(とされている)人物を持ち上げるのは、自分達と違った見方をしている人の意見を聞いて自分達の考えを深めようというようなものではさらさらなくて「自分達と違う立ち位置にいる人も自分達と同じ又は近い考えをしている」というアピールをしたいからに他ならないと俺は思う。またこの記事で取り上げられている(自称)右翼の人をなぜリベラルが持ち上げるかといえば、上の目的に加え「自分達と対立している右翼でさえこの問題に関しては反対している」ということを宣伝し、「ネット右翼は本物の右翼ではない」などと主張して彼らに揺さぶりをかけ、あるいは社会に訴えることを目的の一つとしているのであろうと俺は思う。そしてそれさえできればいいのだから「細かいことは気にしない」ってことになるんだろうとも思う。


さて内田樹氏についてkojitaken氏は

内田樹はあくまでも保守

と書いている。しかし俺は内田氏のことを保守とは全く思っていないのである(かつてはそう言われているからそうなんだろう程度のことは思っていたけれど)。


kojitaken氏はなぜ内田氏を保守だと考えるのだろう?リベラルではないから保守だということだろうか?そうだとしたらそれも一理あるかもしれない。俺は「内田氏は保守か?」という視点で考えているから「内田氏はリベラルか?」という視点ではあまり考えてこなかった。


しかし、それでもやはり内田氏は保守ではないと俺は断固として考える。それは内田氏が憲法九条改正に反対しているからとかいった表面的なことでは全くない。そもそも俺は保守の護憲はありうると考えている。そういうことではなくて、内田氏の思考が保守ではないと思っているのである。その思考はリベラルに近いと俺は思っている。


ただリベラルはリベラルで違和感を持つ人もいるのだろう。それはつまるところ内田氏の思考が可視化されて文章となり、それを我々が目にしたとき、そこに保守思想的なことも含まれているからではないだろうか?そこがリベラルの気に食わないところではなかろうか(俺から見れば、そういうのはうわべだけのものにすぎないのだが)。


ところで俺は前に内田樹の正体は魔法の鏡」だと書いた。
内田樹先生の正体 - 国家鮟鱇


内田氏の文章は難解であって理解が困難である。だが学者の書くことだから価値があるのだろうと読者は考え、その文章から自分が理解できること(自分の世界観に合致するもの)を選んで、読者自身が再構成してそれを「内田氏の言わんとしていること」と理解する。するとそれは読者自身の考えていることと近いものになる(実は読者自身がそうなるように再構成したものなのだが気付かない)。そして著名な学者と自分の考えが近いので自分も優れているのだと感じる。内田氏を賞賛することは同時に自分の価値を高めることにもなるので内田氏を支持する。というメカニズムが働いているのではないかということ。


ただ、これは内田氏を肯定する人について考えたことであって、否定する人については考えてはいなかった。しかしどうやら否定する人についても同じようなメカニズムが働いているケースもあるように思われる。つまり同じものを見ていながら、その人の立ち位置によって見えてくるものが全く違うのだ。


というわけで内田樹の正体はロールシャッハ・テストである」としたい。


ロールシャッハ・テストに使われる図版はただのインクのしみである。内田氏の主張もまた難解だが実のところ支離滅裂であって意味のないものである。まあコアには護憲とか反グローバリズムとかいったありふれた左翼の主張があるにはあるけれど、そこに様々な現代の思想を(表面的にかつ杜撰に)デコレーションして、なんだかよくわからないけれど賢そうに見せているだけの代物である。それをインテリ(インテリぶりたい人)がありがたがっているのだ。このあたり「ソーカル事件」との類似性があるといえよう。
ソーカル事件