「純潔のマリア」とニーチェと「八紘一宇」

アニメ「純潔のマリア」の11話で、ベルナール修道士が

この世にある全ては、よりよき世の中をつくるために使って良いのです。政治も戦争も魔女も、おそらくは…

と語っている。「おそらくは…」で語るのを止めてしまうけれど、それに続くのはまず間違いなく「神も」であろう。


さてニーチェの「神は死んだ」という言葉は有名だが、解釈はいろいろある。

神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」

ニーチェ


俺がもっともしっくりした解釈は、かつては神の意志は人智を超えたものであり、人はそれを受容するだけの存在であった。ところが人は人智を超えているはずの神の意志を(何のためにと)「解釈」するようになった。ひたすら畏れ敬う存在であった神を人が利用するようになったのだ。それが「神は死んだ」ということ。神の意志として現れる事象は絶対的に正しいのである。それが人によって意味が解釈されることになれば、その絶対性を保証するものは神ではなくなるのだ。それを絶対化するためには我々自身が神にならなければならないだろう。だがしかし…というようなもの。「純潔のマリア」は「神は死んだ」を念頭に置いているのだろう。「神は死んだ」はベルナール修道士も9話だったかで口にしているし(もちろんニーチェは後の時代の人)。


で、次に「八紘一宇」。既に書いたように、『日本書紀』の「掩八紘而為宇」に「八紘一宇」で説明されているような意味は無い。神武は人民のために王となったわけではなく神勅によって王となったのである。日本の神々は善悪を超越した存在だ。神々が災厄をもたらすのをやめることを、また恩恵をもたらすことを願い、人は神々をまつった。天皇の役割はまさにその人民の願いを神々に仲介することであった。しかし天皇もまた現人神と呼ばれるように神に近い存在であり、神と同様に善悪を超越し、恩恵をもたらすが、災厄ももたらすものだと考えられてきたと思う。記紀における天皇は決して善ではない。それは武烈天皇雄略天皇に典型的にあらわれている。


ところが「八紘一宇」で示される神武天皇は、人民を思いやる善なる存在であり、本来の姿とは全く異なっていると俺は思う。なんでこんなことになったかといえば、超人的な存在であった天皇が神の座から降ろされたということなんだろうと俺は思う。「神は死んだ」は別にキリスト教が衰退したということではない。いわゆる「天皇制」も衰退するどころか江戸時代よりも天皇は絶対視された。しかし中身は変質してしまった。それはニーチェの「神は死んだ」と同じことが日本でも起きていたということではないだろうか。