八紘一宇と保守と革新と山本七平

このブログで何度も書いていることだけれども「革新」は理性主義の立場。一方「保守」は人間の性には限界があるという認識によって歴史や伝統や慣習を尊重する立場。


さて「八紘一宇」という言葉は戦後はNGワードになった。なぜNGワードなのかといえばGHQに禁止されたからだけれど、

公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル

「八紘一宇」とは何か? 三原じゅん子議員が発言した言葉はGHQが禁止していた
というのは、戦争の悲惨さを体験した日本人にとっても、実感のあるところであって、公文書のみならず、一般に使用されることのなくなった言葉である。


「八紘一宇」という言葉は、その言葉そのものの意味だけではなく、その言葉が歴史的にどのように使用されてきたのかということに意味があるわけであります。


したがってその歴史を尊重するのが「保守」だということになるわけで、そうではなく言葉の意味こそが重要なんだと考えるのは「革新」的な立場ということになりましょう。


というわけで、
1.歴史的背景を考慮すれば使用すべきでない
2.歴史的背景を考慮すれば使用すべきである
3.言葉の本質的な意味を考えれば良い言葉だから使用すべきである
4.言葉の本質的な意味を考えれば危険な言葉だから使用すべきでない
と大雑把に分類すれば4つの考え方ができるであろう。前の2つが保守的思想であって、後の2つが革新的思想となろう。


しかるに、「八紘一宇」は良い言葉だと肯定する(3)のが「保守」、歴史的背景を考慮すれば使用すべきでない(1)とするのが「非保守」という認識がなされているかのようであり、「保守」とは何かが理解されてない感がものすごくあるのである。まあこの問題に限ったことではないけれども。


※ ちなみに山本七平は『「空気」の研究』において、

(略)その背後にあるものは、対象への「臨在感的把握」に基づく判断基準である。
「車が悪い」「車は元凶」と言っても、車自体は一つの「物体」にすぎない。物体それ自身は人格ではなく、倫理的判断の対象ではなく、善でも悪でもありえず、もちろん裁判の対象にもならず、「車が悪い」ことも「車が善い」こともありえない。そしてこれがその判断の対象になりうるのは、「物神」として人格化された場合だけである。いわば「イワシの頭」同様「車の人格化も信心から」であって、それがなければ成り立たないから、この裁判自体が、一つの宗教性をおびてくる。

と『対象への「臨在感的把握」』を批判した。これは公害の元凶として自動車は有罪だという主張への批判としてなされたものであって、もちろん自動車は有罪というのは極論であって同意できないんだけれど、だからといって、それを論拠として山本七平が言うところの「臨在感」(空気)というものを徹底的に批判するのは、全く「保守」の立場ではないのである。したがって山本七平は「保守」では全くないのだが、世間一般では「保守の論客」みたいな扱いになっているのであり、日本における「保守」という言葉の意味のデタラメさがわかるというものである。


で、「八紘一宇」に戻って

すでに述べたように、この「八紘一宇」という言葉のそもそもは、初代神武天皇が橿原の地で即位した折りの「橿原建都の詔」にさかのぼる。そこには、一つの家、家族のような国を創り為(な)そうという日本の建国の精神が示されている。

三原議員「八紘一宇」発言に違和感なし。言葉だけをあげつらっていては、事の本質が見えなくなる  | 馬淵澄夫レポート | 現代ビジネス [講談社]
と、民主党馬渕議員は「言葉そのもの」は良いのだからという理由で三原じゅん子議員を擁護しているのは、もちろん保守的な思考ではない。


なお、『日本書紀』にあるから歴史を考慮しているのであって「保守」だという意見があるのだとしたら、それも「保守」を理解していないのである。過去にあったことを復古するのが保守ではない。それが我々の間に連綿として継承されていなければならない。馬渕議員

この国の長い歴史の中に、「家族宣言」という言葉で、私自身が語り続けてきた国家観が脈々と続く価値観として示されています。

と書いているけれど、単にそういう話が過去にあったというだけのことであって、それ以上のものは何も示していない。『日本書紀』という文献は過去から現在まで引き継がれて読まれているとは言えるだろうけれど…


さらに言えば、「八紘一宇」という言葉は大正期に田中智學がはじめて使用した言葉であり、それが『日本書紀』の記述に由来するものなのは確かだが、だからといって『日本書紀』に書かれていることと同じものだというわけではなかろう。

さらに、詔には「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや。」と記され、天下に住む全てのものが、まるでひとつの家になったように温かい結びつきを実現させることの尊さを説いています。まさに、人々の心のつながりによって、一つの家、家族のような国を創り為(な)そうというのが神武建国の理想であったのです。

というけれど、俺には「(神勅によって皇孫が王たるべき)天下を統一しよう」という意味にしか受け取れないのであって「温かい結びつきを実現させることの尊さ」なんてことは読み取れないのである。


というわけで、

私は、再び、挑戦します。見せかけの保守や、復古的国家主義が台頭しようとする危うい政治情勢に対し、そして、弱い立場に置かれ、途方に暮れた人を切り捨てるような冷たい政治に対して、日本の伝統・文化・価値観、すなわち日本人の「心」を正しく映した本当の保守政治とは何かを私は問い続けます。

という馬渕議員の考える「本当の保守政治」なるものが本当の保守だとは俺には到底考えられないのである。