「八紘一宇」の解釈(その2)

日本書紀』の「掩八紘而為宇」とはウィキペディアによると、

すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。

八紘一宇 - Wikipedia
となっていた。ところが、今日見ると、

津田左右吉の説によれば、日本書紀は「文選に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少しくいいかえたもの」といい、元来は「(大和地方は服属したからさしあたって橿原に皇居を設けることにするが大和以外の地方はまだ平定しないから)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」というだけの意味だという[3]。

という文章がある。そんなこと前に書いてあったっけ?と調べてみたら、2015年3月22日 (日)、つまり昨日追記されたようだ。
「八紘一宇」の版間の差分 - Wikipedia


実のところ俺はこの津田説を知らなかった。知らなかったけれど、昨日引用した
歴史と日本人―明日へのとびら― : 日本書紀より―八紘一宇の意味―
にまさにこの津田説が(批判的にだが)紹介されているのであった。


で、津田説を読んでみて俺がどう思うかといえば、「(文選の)辞句をとってそれを少しくいいかえたもの」なのかはともかく、「宮殿を作ろう」という意味だというのは正しいと思う。
津田左右吉 日本歴史の研究に於ける科学的態度青空文庫


すなわち「為宇」というのは「宇となす」ではなくて「宇(家屋=宮殿)をつくる」という意味であり、「掩八紘而為宇」の前の「兼六合以開都」が「都を開く」なのだから、それに対応しているのである。


津田は

特にこの句の用いてある文章の全体の意義を考えることなしに、この句だけをとり出してそれに恣な解釈をしたのであって

と「為宇」を「宇となす」と読むことを批判しているのだが、その通りだろう。


なお、上の「歴史と日本人―明日へのとびら―」の筆者は津田説に対し

家となすのではなく、単純に宮殿を作ろう、と言っているにすぎないのであれば、前後の文意が通じないではないか。津田の解釈だと、周辺はまだ治まっていない、としながらこの月に宮殿の造営を命じたことが意味不明になってしまうではないか。

と、津田と同様の論点で津田説を批判している。しかし『日本書紀』の文脈を読めば、「兼六合以開都、掩八紘而為宇」は「然後」のことであるので、今造営しようとしている宮殿(橿原宮)のことを指しているのではなくて、天下統一の後に造営する宮殿のことを言っていると解釈できるのではなかろうか。


ただ問題は神武天皇橿原宮崩御しているので、その宮殿を造ってないこと。これをどう解釈すべきなのだろうか?天下統一を成し遂げないままに崩御したので事業は後継者に引き継がれたということだろうか?確かにヤマトタケルの西征・東征のように、後の時代もまだ天皇に服属しない民がいることになっているのでそうなのかもしれない。しかし神話なので前後の整合性が必ずしも取れてるとは限らないわけで、別の理由かもしれない。そこのところは保留。