『日本書紀』の天岩戸神話の原型が「太陽が隠れる神話」だったことは間違いない。しかし『日本書紀』におけおけるアマテラスは太陽ではなく「太陽のパートナー」だ。アマテラスが隠れることにより太陽もまた隠れたのだと解釈すべきだ。
だが、アマテラスが太陽ではないとすると天岩戸伝説に太陽が直接描写されていないことになる。神話の主役はアマテラスであり、太陽は重要な役割があるにもかかわらず脇役としてすら登場しない。
これをどう解釈すべきか。
原型の神話では主役は太陽だったということは、太陽だったアマテラスが太陽ではなくなったということでもある。ただし既に書いたように太陽だった時点でアマテラスという名だったとは限らない。それはともかく「太陽=太陽神」だったところ、右項の「太陽神」が「太陽のパートナー」に変質した後の「太陽」はどうなるかといえば、「太陽が神ではなくなる」もしくは「太陽に新しい神格を与える」のどちらかであろう。
ここで考えなければならないのは、もし大方の歴史学者が考えるようにアマテラスが太陽神だとしても、既に多くの学者が指摘しているように記紀神話には太陽神としてのアマテラスの神話は多くないということだ。したがって「太陽神アマテラス」は崇拝されるけれども「太陽」自体は神として崇拝されているわけではないという可能性もある。
しかしながら、やはり気になるのは「ヒルコ」のことだ。
ヒルコが太陽神だという説は良く知られている。アマテラスの「別名」は「オオヒルメノムチ」であり、「ヒルコ」と「ヒルメ」は一対となっている。アマテラスは太陽神ではなく太陽に奉仕する巫女が神格化したという説も良く知られている。
正直俺はこのへんまだ詳しくないので、上記のような説があることは知っているけれど、それを踏まえて記紀神話をどう解釈すべきだと主張されているのかについては良く知らない(何度も書くけれど大方の学者の意見は「アマテラス=太陽神」だ)。
俺は、天岩戸神話において「太陽神」が「太陽のパートナー」に変質したことによって、太陽に新たに付加されたのが「ヒルコ」という神格ではないかと思う。
だとすれば「ヒルコ」は比較的新しい神ということになる。ただし、天岩戸神話における太陽の神格は元々「ヒルコ」であったものが、「ヒルコ」が「アマテラス」に変質し、神格を剥奪された太陽に対してあらためて「ヒルコ」という神格を与えたという可能性もあるし、それ以外の可能性もあるだろう。このあたりはもっと検証してみなければならない。
それはともかく、天岩戸神話におけるアマテラス(オオヒルメ)は「太陽のパートナー」であり「太陽」はヒルコであるというのが俺の推論。
しかし、ここに大きな問題がある。
第一の問題は「天岩戸神話になぜヒルコが記されていないのか」ということ、そして第二の問題は「ヒルコは神話に少し登場するだけの地味な神」だということだ。