アマテラスとタカミムスヒ(8) ヒルコの存在感が薄い理由(その1)

ヒルコは太陽神である。これは学者も指摘するところだけれども、多くの場合アマテラスを太陽神とみなしているのであり、つまりヒルコは「本来の太陽神」とみなしていると思われる。しかし、何度も書くがアマテラスは太陽そのものではなく「太陽のパートナー」である。多くの学者がアマテラスに巫女的性格があることを指摘しているが、にもかかわらず太陽神であることに固執している。


だが俺は『日本書紀』の時点でも太陽神はヒルコだったと思う。多少混乱はあるにしてもアマテラスは「太陽のパートナー」であって太陽ではない。


しかしながら記紀神話の中でヒルコの影は薄い。生まれてすぐに捨てられたとあるだけで、その後登場しない。故に太陽神の地位をアマテラスに奪われてヒルコの神話が抹消されたかのように考えられている。だが俺の考えではそうではない。ヒルコは存在感が薄くても太陽であり存在し続けているのだ。


すなわち、わが国の神話は太陽神の存在感が薄いということだ。


そんなバカなと思うかもしれないが、もう一柱の神のことを考えればその方が辻褄が合っている。


すなわち、わが国の神話は月神の存在感も薄いのだ。

日本神話において、ツクヨミは『古事記』『日本書紀』の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに『日本書紀』第五段第十一の一書で、穀物の起源が語られているぐらいである。これはアマテラスとスサノヲという対照的な性格を持った神の間に何もしない神を置くことでバランスをとっているとする説もある[8

ツクヨミ - Wikipedia
というようにツクヨミの存在感が薄いことを指摘されることは多い。一方ヒルコの存在感が薄いこともよく指摘される。だがこの両者は別個のこととして考えられているようだ。


だがそうではなくて、
わが国の神話は日神と月神の存在感が薄い
と考えるべきなのではないかと思うのだ。


では、なぜわが国の神話は日神と月神の存在感が薄いのか?


これは意外に単純な理由なのではないかと思う。


(つづく)