イザナキ・イザナミ二神が産んだ「日神」「月神」「ヒルコ」「スサノオ」「淡路島」は全て二神の目的に適わなかった「失敗作」だ。このうち「日神」「月神」「ヒルコ」「スサノオ」は放棄されるという共通点を持っている。
しかし、神が何度も失敗するというのは不自然な話であり、本来は一度だけ失敗したという話だったはずだ。というか『日本書紀』においても「淡路島」とそれ以外の話は切り離されているし、「日神」「月神」は失敗作というより優秀作ではある
「日神」「月神」が優秀作であっても目的外であることに違いはない。また「日神」「月神」を優秀作と評価した故に、優秀作ができた後に失敗作ができるという形になってしまった。
経緯としては、
(1)「男女二神の最初の子作りが失敗した」
(2)最初の子が「日神」だという要素が加わる。また「淡路島」だという話もできる。
(3)「日神」「月神」の「双子」が生まれたという要素が加わる
(4)さらに「風神」のスサノオが加わり「三つ子」に変化する
ということになると思われる(これらは本来は何度も子作りしたのではなくて一度に出来たという話だったであろう)。
だが、ここに「ヒルコ」が入る余地はない。そもそもヒルコは太陽神だから「日神」=「ヒルコ」で良かったはずだ。なぜ「日神」と別に「ヒルコ」がいなければならないかといえば、(陰謀論ではなく)ここにさらに「ヒルコ-ヒルメ」という要素が加わったからであろうと俺は思う。
ただし単純に考えれば「ヒルコ-ヒルメ」という要素が加わったとしても「日神=ヒルコ」であっても良さそうにも思える。なぜそれができなかったのかを考える必要があるだろう。そこが大問題だ。おそらく最大の問題は「ヒルメ」の位置付けだろう。「八百万の神」はイザナキ・イザナミ二神の子孫でなければならないということでは必ずしもないけれど「ヒルメ」は二神の子としなければならなかったのだろう。一方「太陽神」も二神の子でなければならない。すなわち「ヒルコ」と「ヒルメ」は兄弟姉妹の関係でなければならない。
ところが「ヒルメ」は「太陽のパートナー」であり、シャーマン・巫女的な性格の神であるから「日神」「月神」あるいは風神の「スサノオ」のような自然そのものを神格化した神とは性格が異なる。単純に「日神」「月神」「スサノオ」の誕生神話に「ヒルメ」を加えるには大きな壁があったのではなかろうか。
一方、アマテラスは学者がいうような太陽そのものではなく「太陽のパートナー」である。「天岩戸神話」において、本来は太陽が隠れるという話であったものが、太陽ではなく「太陽のパートナー」が隠れたので太陽が消えたという神話に変化した。太陽が「ヒルコ」であり、太陽のパートナーが「ヒルメ」である。しかし本来は「ヒルコ」が隠れたという話だった。おそらくはこの「新しい神話」が成立した後も「古い神話」が消えたわけではなく並立していた時期があったのではないかと思われる。
そこで両者の混乱が生じたのではないだろうか?本来は「太陽」が隠れたという話だったのが「ヒルメ=アマテラス」が隠れたという話になり、さらに一部で「ヒルメ=アマテラス」が「日神=ヒルメ(アマテラス)」とみなされるようになった。ただしあくまで一部の認識であって「日神」と「ヒルメ(アマテラス)」は違う神だという認識も有力だった。それが『日本書紀』編纂時の状態であり「アマテラス=太陽神」という考えが定まったのはもっと後の時代であろう。
「ヒルメ(アマテラス)」=「日神」という考えが誕生すると、元々は神々の誕生神話に「ヒルメ」をどう挿入するかという問題だったのが、逆に本来の日神である「ヒルコ」が宙に浮いてしまった。しかし「ヒルメ」挿入問題とは違い「ヒルコ」の正体は太陽だから自然そのものであり神々の誕生神話に挿入することに大きな壁はなかった。
そういうことではなかろうか。