⇒今川氏真は「戦国最後の勝者」?大河ドラマにできるかも(笑) - 見えない道場本舗
を見て書きたくなった。
吉良義央が今川義元の子孫だということと、泉岳寺が今川義元の菩提を弔うため開創されたことと、開基が今川義元の孫(あるいは縁者)の門庵宗関という人だということは前に書いた。
⇒レッツ泉岳寺!(今川家の人々)
だが、他にも興味深い話なのに殆ど知られていない話がある。
戦国時代の尾張に今川氏豊というマイナー武将がいた。那古野城主だったが織田信秀によって城を奪われて京に上ったという。今川氏豊は今川氏親の末子で今川義元の実弟(ただし疑問視する人もいる)。
⇒今川氏豊 - Wikipedia
今川氏豊はマイナー武将だけれど織田氏との関係でそれなりに知られている。だが氏豊の娘については殆ど知られていないだろう。氏豊の娘は中野重吉という人の妻となった。慶長3年に夫が死去し彼女は熱田の屋敷の地に寺院を建立した。秋月院という。現在も名古屋市瑞穂区にある。開山は建室宗寅という禅僧。
この建室宗寅という人が何者かというと今川義元の弟である。今川氏豊が義元の弟だとすれば、建室宗寅と氏豊も兄弟ということになり氏豊の娘の叔父になる(先に氏豊が義元の弟だということが疑問視する人もいるということを書いたが兄弟だった可能性が高いのではないだろうか)。
この建室宗寅という人は下野(栃木県)の大中寺11世住職である。
1591年(天正19年)、当寺は徳川家康により、曹洞宗の関八州僧録職に任命され、1612年(慶長17年)には下総の總寧寺(千葉県市川市)、武蔵野龍穏寺(埼玉県入間郡越生町)と共に天下大僧録(関三刹)の一となる。天下大僧録とは、寺院の本末制度とは別に、末寺数の多い日本各地の曹洞宗寺院を傘下において管理させる寺院として上記3箇寺を指定したものである。3箇寺は月番で曹洞宗の事務を取り仕切り、大本山永平寺の住職はこれら3箇寺の住職経験者から選任された。
ウィキペディアの記事には今川のいの字も出てこないけれど、こちらの記事には
大中寺の第11世建室宗寅大和尚は、今川義元の弟で、徳川家康と親交があり、家康にとっても義元の弟ということで大切な人物だったといわれています。大中寺の山門が老朽化していたため家康は宗寅に皆川城より門を移築することを約束し、1616年に約束どおり移築されたといわれています。
⇒南栃木-大平町の恵みと文化の香り│おおひらブランド認定品<大中寺>
と、家康と今川一族の建室宗寅との関係が指摘されている。
また、栃木市にある傑岑寺(けっしんじ)のホームページには、
時の住職は四世建室宗寅和尚である。宗寅和尚は駿河の今川義元の弟であり永禄3年(1560)今川家滅亡により出家し大中寺で修行の上傑岑寺に住職中、徳川家康公に見出された。家康公は皆川城主山城守廣照公と相談して自ら外護者となり寺の移転再興を成就して祈願寺とした。故に徳川氏の紋(葵紋)を以て寺の定紋としている。
⇒傑岑寺の歴史 - 建幢山傑岑寺
とある。また、
天正14年(1586)、現在地に移転する際からその後にわたり、建室、門庵の両師と親交があった徳川家康、秀忠の両公から徳川家の祈願寺として手厚い外護を受けた。寺は移転を機に規模は拡大され、また建室和尚は家康公の推挙により、京都に参内して禅師号と紫衣を賜るという栄誉を得た。この栄誉に対して 贈られた家康公からお祝いの書状が現在も寺に残っている。
ともある。
さて、ここに門庵という名前が出てくるわけだが、彼は既に書いたように泉岳寺の開山である。
1612年(慶長17)徳川氏により外桜田に創建され,開山には大中寺(栃木県大平町)の建室宗寅(けんしつそうえん)の弟子,門庵宗関(もんなんそうかん)(今川義元の三男ともいわれる)が迎えられた。41年(寛永18)現在地に移転し,浅野家,毛利家,朽木家などの菩提寺となった。
※ ただし、ウィキペディアの今川義元の項を見ても建室宗寅の名は出てこない。学界で弟だと認められているのかは定かではない。