アマテラスとタカミムスヒ(5) 日神とアマテラス

日本書紀』「第五段本文」を素直に読めばイザナキ・イザナミ二神は「天下の主」を生もうとしたが失敗したということになる。「日神」「月神」「ヒルコ」「スサノオ」は全て目的と違うものを生んでしまった「失敗作」なのだ。


しかし、ここでいう「日神」は「一書」に「アマテラスオオミカミ」「アマテラスオオヒルメノミコト」と云うとはあるけれど、あくまでそれは「一書」であり、真っ先に書かれている名前は「日神」であり、つまりこれが正式名称なのだ。


歴史学者は『日本書紀』から政治的な意図を読み取ることが好きだが、それでいえば『書紀』の編纂者はここで主張しているのは、太陽神の名は「日神」だということであって、二番目に記されている「アマテラス」では決してないのだ。


ところが「第六段本文」ではアマテラスはスサノオの姉として登場するのだ。「第五段本文」では「一書」に書かれていた名前であったものが、こっちでは主になっており、逆に「日神」は登場しない。


これをどう解釈すべきか?『書紀』の編纂者が「日神」「アマテラス」「オオヒルメ」のうちのどれでも自由に使用することができるのなら「第五段本文」も「アマテラス」を主にしておけば良かったはずだ。そうしなかったのには理由があるはずだ。


そうでありながら「第六段本文」では何の断りもなく「アマテラス」が登場する。それはなぜかと考えれば、この「第六段本文」の神の名は「アマテラス」だと断言できるからだろう。逆に「第五段本文」の神の名は断言できないということであり、しかも「日神」の方が有力だということになるだろう。


すなわち、日本書紀』本文では「日神」と「アマテラス」が同じ神だとは決めかねているということになるだろう。しかもどちらかといえば二つの神は異なるということを主張しようとしているのだ。これは何も『書紀』編纂者が隠蔽しているのではなく、素直に読めばそう読めるのだ。


事実、「日神」と「アマテラス」は別の神の可能性が高いと思われる。ただし、これを『書紀』編纂者が二系統の神話を合成したのだと考えるのは早計だ。そんなことが可能ならば「アマテラス」で統一することも容易いことだったはずだ。