古代史学者が見ているのは古代ではなく戦前である

まあこれは言い過ぎかもしれないけれど、古代史学者の著書を読むとそういう面が多々あると思うのだ。


戦後の歴史学者は戦前の思想を否定することに使命感を持っていた。それ自体は悪いことではないけれど、あまりにもその思いが強すぎるために、古代を直接見るのではなく「戦前の思想における古代」というフィルターを通して古代を見ることに傾きすぎてしまったのではなかろうか?「間違った戦前の思想」その「悪」の根源を求めれば『日本書紀』『古事記』が史実を歪めたのが悪いのだと。戦前・戦中にアマテラスは皇祖神として崇拝の対象だった。それを否定するには諸悪の根源である『日本書紀』『古事記』を否定しなければならないと。


ところがその『日本書紀』の本文では天孫降臨を命じたのは皇祖タカミムスヒと明記してあるのだ。一書にはアマテラスとあるが本文の方が優位にあると考えるのが常識的な考えというものだろう。ちなみに『古事記』には「高御産巣日神天照大御神」とある。『古事記』が何のために書かれたのかは不明だが政治的に重要だったのが『日本書紀』であり、その中でも「本文」であるというのも常識的な考えだろう。改竄したというが、それが可能ならなぜ「本文」を改竄しなかったのだ?したがってそれがアマテラスだという考えが主流となったの後の時代のことと考えるのが常識的な考え方ではなかろうか(それがいつなのかは無学の俺にはわからないが)。


ところがなぜか古代史学者が古来アマテラスが皇祖神であるのが当然であるという前提のもとに、それが捏造されたものだと否定しているのだ。これはいわゆる「藁人形論法」というものではないのだろうか?

歴史学者岡正雄や古代文学・神話学者の松前健らは本来の皇祖神はタカミムスビ神であり、天照大神は後に祀り上げられたとしている。

皇祖神 - Wikipedia

岡正雄松前健について俺は詳しくないが彼らは特にイデオロギー的にそういう説を唱えたのではないとは思う(説の正否は別として)。しかし、それを引き継いだ人達の中には濃厚にそれを持つ人がいて、冷静な目での考察が欠落している人が多いように思うのである。