なんでもかんでも陰謀にしたがる戦後歴史学

俺は岡正雄説を支持しない。支持しないけれど批判的に検証する価値はあると思う。一方溝口説は論外だと思う。


日本書紀』はタカミムスヒを皇祖としているのだ。すなわち大和朝廷の意思は「タカミムスヒが主神」だというのが常識的な考えというものだろう。ところが大和朝廷は皇祖神をタカミムスヒからアマテラスへと転換させようと天武期以来画策していたという。そんなバカなことがありえるだろうか?もちろん大抵の陰謀論がそうであるように絶対に無いとは言い切れない。しかし圧倒的に可能性が高いのは陰謀などなかったということだ。


日本書紀』は言ってみれば大和朝廷のバイブルだ。そこでタカミムスヒが皇祖だとしておいて、しかしながらそれは過渡的な措置で、後になってから「実はアマテラスが皇祖」と主張しても後の祭りである。大和朝廷は『改訂版日本書紀』を発行する予定だったとでもいうのだろうか?そんなことをすれば神話そのものの価値が消失する。


確かに「アマテラス=皇祖神」という固定観念が現代において根付いていることは疑いない。そこで重視すべきなのは、日本書紀』がタカミムスヒを皇祖としているにもかかわらず、なぜアマテラスが皇祖だと考えられるようになったのか?ということだ。


何度でも繰り返すが『日本書紀』編纂時点での朝廷の意思は「タカミムスヒが皇祖」であって、今すぐには無理だから妥協するけど将来的にはアマテラスを皇祖にしようなどというものでは有り得ないのだ。そして「正史」にそう書かれた以上は容易に変更できるものではないのだ。にもかかわらず「アマテラス=皇祖」になってしまったのだ。


そこには余程大きな力が作用していると考えるべきなのだ。その力は人が意図的・計画的に作りだせるものでは到底ないと考えるべきなのだ。岡正雄の説はその「大きな力」が何なのかについての説明に一応説得力がある。


ただしそれが正しいかというと問題はあるように思う。特に「天皇族」について。それは多くの人が問題視するところだろう。溝口氏もそれを疑問視している。それはいい。それはいいが結局のところ陰謀論を採用してしまったのだ。溝口氏は岡説の相対的には小さな問題点を修正すると同時に核心部分を破壊してしまったのだ。



1898年生まれで戦前より活躍していた岡正雄は人知によらない大きな力を想定した。一方1931年生まれで戦後の学者である溝口氏は人知を過信して陰謀論を採用した。戦後歴史学陰謀論の見本市であることを俺は既に何度も指摘している。そして、この異常さに気付くことなく今も続々と新たな陰謀論がアカデミズムから発信されているのである。