アマテラスとタカミムスヒ(2) アマテラスは「太陽神」ではない

アマテラスは元々は太陽そのものだったが日本書紀』におけるアマテラスは太陽神ではないというのが俺の推論。なおここでの「太陽神」とは「太陽を神格化した神」という意味。太陽ではないけれど「太陽神」と呼ばれる例もあり、そういう意味では『日本書紀』でもアマテラスは太陽神ではあるけれどややこしくなるので「太陽神ではない」ということにしておく。


また、太陽神だった時の「アマテラス」が「アマテラス」という名だったかはわからない。アマテラスが太陽神だというのが歴史学者の大方の共通認識だけれど、太陽神ではないという説もある。天照大神の「天照」から太陽をイメージするけれど、実は「大神」の方が主であり「天照」は「大神」の敬称である云々。傾聴に値する説だと思うけれど検証してると長くなるので略。


それでは『日本書紀』におけるアマテラスとは何かというと、俺は「太陽のパートナー」だと思う。


「太陽のパートナー」という表現が適切か少し悩んだけれど他に思い浮かばない。「太陽のシャーマン」とか「太陽の巫女」という表現も考えたけれど少し違うように思う。アマテラスの「別名(別名というのも問題がある可能性はあるが)」の「オオヒルメノムチ」から巫女説があるけれど、巫女には「神に仕える女性」というイメージが一般にあるので不適切なように思う。


アマテラスが「太陽のパートナー」だと思う理由の一つは「天岩戸神話」において、アマテラスが岩屋に籠ると闇になったということによる。アマテラスが太陽であり、太陽が隠れたから闇になったのだというのが歴史学者を含めた大方の常識であろう。しかし『書紀』にはアマテラスが太陽だということが確実にわかる記述はない。『書紀』の異説に『岩戸を開けると日神の光が国に満ちた」とあるだけだ。これは確かに「日神」が光っていたことを示すが、神の名は「日神」でありアマテラスではない。そして「本文」にもその他の異説にもそのような記述はない。


すなわちアマテラスが岩屋に籠ったことと太陽が消えたことの間には因果関係があるのは間違いないが、アマテラスが太陽だという確実な証拠はどこにもないのである。


アマテラスが太陽ではなくても、アマテラスがいなくなると闇になることは説明可能だ。アマテラスがいないと太陽が昇ることができなくなると解釈すればよいのだ。あるいは昇ってはいるけど輝くことができないとか、雲が邪魔をするとかの可能性もあるけれど、とにかく説明は可能なのだ。


なおミャオ族の招日神話によると太陽は「山のむこう」に隠れたとある。
ミャオ族の「招日神話」
これが神話を忠実に記したものかわからないけれど、自然科学的に考えれば太陽が隠れるのは「山のむこう」の方が理にかなっている。岩屋に隠れるというのは不自然だ。


というわけで「アマテラスは太陽神ではなくて太陽のパートナーである」と考えるのだ。実は他にも根拠があるのだが長くなるので略。


そして、この「アマテラスが太陽のパートナー」だということは天孫降臨神話の解釈にも大きな意味を持ってくると思っているのだ。