二階から目薬の謎

二階から目薬といいますが昔の目薬は軟膏でした。 なぜこんなことわざができたのですか? - Yahoo!知恵袋
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これは知らなかった。へぇー


ただし、知らなかったというのは「昔の目薬は軟膏」ということを知らなかったということ。正確には黒田如水の先祖目薬が軟膏だということは知っていたけれど、それと「二階から目薬」のことわざとが結びつかないで液体の目薬のことだと思っていたということ。


ベストアンサーによると目薬は軟膏だったけれど「これを水に浸し、浸出液で点眼することもよく行われた」ということらしい。


だが、本当にそれでいいのか?ブックマークコメントでは納得している人も多いけれど、これはあくまで一説にすぎないでしょう。



北村孝一氏の「ことわざ酒房」を見てみる。
ことわざのトリビア--二階から目薬--


はじまりは「トリビアの泉」だそうだ。

 ところが、江戸時代には「目薬といっても軟膏の塗り薬」で、二階から目薬は「無理な相談です」とする説がある(森田誠吾『いろはかるた噺』)。ことわざの意味も「出来ないこと、してみても無駄なこと」だ、と森田氏はいう。

これに疑問を持ったことにより、北村孝一氏の説が出てきたというわけだ。北村孝一氏の説が正しいのか?それとも森田誠吾氏の説が正しいのか?どちらも正しくないという可能性だってある。


そもそも「二階から目薬」とはどういう状況なのか?

 「二階から目薬」と聞いたとき、ほとんどの人は、無意識に現代の液体の目薬をイメージして理解する。目薬を持ち上げ、顔を仰向けにして上から一滴たらすのだが、うまく目に入らないこともあって、他の人にさしてもらう場合も少なくないだろう。現実に二階からさすはずはないが、そういう場面を想像すると、何度やってもうまくいかなくて、どうにももどかしい思いをするに違いない。『広辞苑』が「思うように届かないこと、効果のおぼつかないこと、迂遠なことのたとえ」としているのは、十分納得できる記述である。

北村氏にせよ森田氏にせよ、二階にいる人が一階にいる人の目に目薬をさそうとしても困難または無理だという意味で解釈しているように思う。その場合、実行しようとする人はそれがわかってない(わかってたらやらない)ということになるのではないかと思う。


ところで、「二階から目薬」の諺の由来は、西沢一風『御前義経記』《元禄13(1700)年》の「二階から目薬さす仕掛け、さりとは急な恋ぞかし」だという。検索すると多数ヒットするので有名なのだろう。ただし、ほとんどはどこかで知った豆知識らしく、この「二階から目薬さす仕掛け、さりとは急な恋ぞかし」とはどういう意味なのかの解説をしているものが見当たらない。

これは、当時の花街での顔見世の呼びかけに、否定的な言い方をした冷やかし客に対し、目が悪そうだからここから目薬を垂らしてやろうと言い返す二階の芸子。さらに客の方はここにチャンと差してみせろとばかり、上に向かってアッカンベーをして見せる──このような掛け合いの構図がもともとは含意としてあったようです。

『二階から目薬』何で二階から? - Yahoo!知恵袋
なんて解説があるけれど、一体どこをどう読めばそう解釈できるのか?『御前義経記』の前後にそのような記述があるのか?しかしこれはおそらく、

漠然とイメージされるは、2階の女性の美醜を下からからかった男に、あんたの目が悪いのだろうと二階から目薬を差すぞ言い返せば、下の男もまたどうぞとばかりわざと指で目を広げ、アカンベーで返答するという、遣り取りなどいかがでしょう。

二階から目薬 | 国語のQ&A【OKWave】
というのを参考にしたのではなかろうか?前者は2011年、後者は2005年に書かれている。


では、「二階から目薬さす仕掛け、さりとは急な恋ぞかし」とはどういう意味なのか?俺は古文が苦手なのでわからない。わからないけれど「恋」に関係することはわかる。そこで思うのは「目薬さす」という行為は人にしてもらう場合には両者が接近していなければできない行為である。つまりそれだけ親しい関係だということだ。


すると「二階から目薬さす」とは、まだそんなに親しくないということを意味するのではなかろうか?まだそんなに親しくないのに付き合いたいという切羽詰った恋ということではなかろうか?


つまり「二階から目薬をさす」というのはおよそ不可能に近い。それはわかっている。わかっているけれど目薬をさしたい(恋人になりたい)ということではないか?そう考えると目薬が軟膏か液体か、軟膏ならおよそ無理だが液体なら多少は可能性があるなどと考えることはそれほど意味がないように思われる。本当の目的は目薬をさすことではないのだから。


広辞苑』に「思うように届かないこと、効果のおぼつかないこと、迂遠なことのたとえ」とあるそうだが、結局のところこれが正しいということになるだろう。森田氏の解釈は違うのではないかと思う。でも北村氏の「何度やってもうまくいかなくて、どうにももどかしい思いをするに違いない」というのも少し違うのではないか。もどかしい思いは確かだろうけれど、わかっているけれどやらずにはいられないというニュアンスがあると思うから。


なお、以上は俺の推測であることは言うまでもない。