アマテラスとタカミムスヒ(9) ヒルコの存在感が薄い理由(その2)

ヒルコの存在感は薄い。故に新しい太陽神アマテラスが本来の太陽神ヒルコの地位を襲ったのだと考えられているがそうではない。アマテラスは太陽神ではなくて「太陽のパートナー」である。太陽神は『日本書紀』の時点でも依然としてヒルコだ。記紀の時点で「日神=アマテラス」という説が存在したが、この「日神」は元は太陽神ではあったけれどアマテラスとみなされることによって太陽神の性格を失ったのだ。その穴を埋めるためにヒルコが必要だったのだ。すなわち本来の太陽神の痕跡が残っているというよりも、神話が変化することによって生じた欠落を補填するためにヒルコが付加されたと考えるべきだ。


しかるに、必要によりヒルコは生じたというのにヒルコの存在感は薄いのである。それをどう説明するのか?それは俺の考えが間違っているのであって、ヒルコは必要のない存在であり、可能ならば抹消したかったのだが記紀編纂時点では機が熟してなかったかということなのか?


だがそうではなく、ヒルコを太陽神だと見做せば、その存在感の薄さの理由は月神たるツクヨミの存在感の薄さの理由と同じだと考えることが可能になるのだ。一般に両者を一つのこととして考えないのは「アマテラス=太陽神」と見做し、存在感のあるアマテラスと存在感のないツクヨミを対照的なものと考えているからだ。


では、その理由とは何か?


俺はこれをどう書こうかと悩んだ。最初はいくつかヒントを出して、その後に結論を書こうかと思ったのだが答えは実に単純なのでネタバレする可能性が高い。繰り返すがものすごく単純であり「コロンブスの卵」に匹敵する(といっても固定観念に縛られていたらいくらヒントを出してもわからないとは思うが)



というわけで結論から先に書くことにした。


その理由とは、




太陽も月も世界に一つしかないから



別の言葉でいえば、
日本で見る太陽も中国で見る太陽も印度で見る太陽も同じ太陽だ
ということだ。


この事実が「日本神話」に重大な影響を与えているのである。そうに違いない。