アマテラスとタカミムスヒ(11)学者の国際感覚

学者は古代日本の研究において日本単独で考えるのではなく国際的な視点で考えなければならないと決まり文句のように言う。よくあるパターンとしては「従来はあまり議論されてこなかったけれども」的なことを言って発展途上の段階であることを断った上で、「神話」については朝鮮半島や北方ユーラシアの神話との関係や『日本書紀』編纂時の国際情勢、たとえば中国の皇帝との関係や白村江の敗戦の影響などを論じたりする。


もちろんそういう「国際的な視点」も重要ではある(ただし白村江の戦いについては、何でもかんでもそのせいにして過大評価しているように思うが)。


ところが、学者はこのように国際感覚の重要性を指摘しておきながら、ものすごく基本的かつ重要なことを見落としているのである。


その一つがこの「世界に太陽は一つだけしかない」ということだ。


俺はアマテラスについて記事を書くにあたって、それなりに「先行研究」を見たのだが、未だにそういった視点で考察したものを一つも見ていないのだ。


唯一の例外と思われるのは江戸時代の上田秋成だ。

『鉗狂人』の中で、宣長天照大御神が四海万国を照しますと発言をした。秋成は宣長への書簡で疑問を投げた。ここから日の神論争が始まる。天照大御神が世界を照らす太陽とする神話解釈は正しいのか、それとも正しくないのか。秋成は正しくないとした。

日の神論争 - Wikipedia

「自国の人が熱心に自国の神を信じ尊ぶのは当たり前です。言い換えれば、他国の人が他国の神を信じるのも当たり前です。天照大御神が全世界を照らす太陽であるという神話解釈はおかしいのです」

古代日本もまさにこの問題に直面したのだと俺は思う。ただし、上田秋成は「アマテラス=太陽」という点では本居宣長と共通の認識を持っている。故に重要な問題提起をしているけれど俺の考えとは全く違う。俺はまさにこの問題があるために「太陽神=ヒルコ」の存在感が薄くなったのだと考えるのである。


俺の結論とは異なるとはいえこれは実に重要な問題提起である。これを発展させれば俺の考えにたどり着くことも可能なはずなのだ(ちなみに俺はこの論争を後で知ったのだが)。学者はこの論争を見て何を感じたのだろうか?単に「日本の優位性」を否定した論争だとしか捉えていないんじゃなかろうか?


ところで、ここで本居宣長も実に重要な指摘をしているのである。それは

『鉗狂人』の中で、宣長天照大御神が四海万国を照しますと発言をした。

ということだ。アマテラスは太陽だから全世界を照らしているという主張だ。それに対して

秋成は神代記から天照大御神が照らす範囲、照らさない範囲を探した。そこで「此子光華明彩、照徹於六合之内」、また「又閉天岩戸、而刺許母理坐也、爾高天原皆暗、葦原中国悉闇、因此而常夜往」を例として挙げた。六合は本来、天地四方を指すがこの文では日本を指していると秋成は仮定した。天照大御神が天岩戸に隠れて暗くなったのが葦原中国と名指しされた点からも明らかであると秋成は主張した。

と批判した。しかしこれは宣長の方が理に叶っている。


太陽が日本だけを照らすなんてことは有り得ない。そんなことは古代人だってわかっていたはずだ。


「六合は本来、天地四方を指すがこの文では日本を指している」と秋成は言うがそうではない。「六合」とは全世界のことである。


秋成の問題提起は鋭いがこの点は間違っており宣長が正しい。どうしてこのようなネジレが生じるかといえば、太陽はアマテラスではなくヒルコだという考えにたどり着けなかったからに他ならない。


その点に気付いて修正すれば、現在の神話解釈は大幅に修正されるはずなのだ。しかし学者達はそこに気付くことができないのだ。