アマテラスとタカミムスヒ(12) ヒルコの存在感が薄い理由(その4)

キリスト教記紀神話の世界観の違いは何かといえば、すぐに思い浮かべるのは一神教多神教ということだろうけれども、ここで問題にしたいのはそこではない。キリスト教(あるいはユダヤ経やイスラム教)は全世界さらには全宇宙を対象にしているのに対して記紀神話は「日本」という限定された地域のみを対象にしているということだ。


キリスト教等の神はこの世のありとあらゆるものを創造した。ということは現代の地理感覚でいえば五大陸は全て神の手によって創られたということだ。一方イザナキ・イザナミが創ったのは「大八島」と呼ばれる島々であり、すなわち日本列島を創生したに過ぎない。


そういうと両者は全く異なるようにみえる。しかし古代イスラエルの人々が「新大陸」の存在を知っていたとは到底考えられないのであり、すなわち「神は五大陸全てを創ったと聖書に書いてあるから全ての土地を創ったのだ」ということではなく「神は全ての土地を創ったのだから五大陸は神が創ったのだ」という結論が導き出されるのである。


一方、記紀神話が創作されたものでないのだとしたら、男女二神が創造したのが最初から日本列島という具体的な地域を指していたいうのはおよそ考えられないことだ。ではこの神話の原型がどのようなものだったかと考えれば、おそらくは「神が土地を創った」というものであっただろう。そしてこの場合の「土地」というのは「全世界の土地」という意味であったはずだ。両者はそれほどかけ離れたものではなかったはずだ。


しかし、血族集団による小さな集落で暮らしていた太古の人々が把握していた土地というのは極めて狭い範囲であったろう。もちろん自分達意外にも人間がいることは知っていただろうけれども、近隣の集落以外は「遠方」といったような漠然としたものであったのではなかろうか。そして自分達の住んでいるところが「世界の中心」だと考えていたのではなかろうか?太古の人々が、神が「全世界の土地」を創ったと考えていたとしても、その「全世界の土地」というのは曖昧模糊としたイメージであったであろう。


やがて社会が発達してくると集団が大きくなっていくし、自分達と異なる集団との関係も切実な問題となっていく。ただしそれが日本列島内部に留まっている時点では、自分達と異なるといっても類似する点も多々あったであろう。集団Aが「神が土地を創った」という神話を保有し、別の集団Bが同じく「神が土地を創った」という神話を所有していたとき、「両者の信じる神は同じなのだ」というような思考が芽生えることもあっただろう。必ずしも平和的にではなかったかもしれないが神話の融合が図られたであろう。


おそらくその過程で曖昧模糊としていた世界観も具体的なものとなっていったのだろう。漠然とした「神は土地を創った」から「神は最初にどこそこの土地を創った」といったような具体的な地名で神話が語られるようになっていったのではなかろうか。


狭い地域しか把握してなかったときには「全世界の土地」であったものが、広範な地域を把握するようになると逆に神が創造した土地は具体的な地名が語られることによって縮小してしまったのではないだろうか。ただし当人達にはそのような感覚はなかったであろう。地球上の土地をほぼ全て把握している現代人の目から見ればそう見えるということであって、その時代の人々にとっては存在を知らない土地が漏れているということなど知りようがないからだ。もちろん当時の人だって自分達が把握している土地の外にもまだ土地があり人がいるということは感覚的に知っていただろうけれど、それがどれほどのものかはわからないのであって多少の「糊しろ」として漠然と感じていたに過ぎないだろう。そして自分達の把握する世界が拡大するにつれ「糊しろ」も外側に移動することになったであろう。


だが、拡大はやがて壁にぶち当たる。多少の違いは許容範囲だが、周縁部が拡がるにつれ差異も拡大していくことになりやがて許容範囲を超えてしまうだろう。東日本の蝦夷と呼ばれた人々や九州の熊襲や隼人と呼ばれた人々との融和は不可能だったのだろう。しかし彼らは同じ「島」に住む人々である。島の北部を作った神と島の南部を作った神が別だなんてことはいかにも不自然である。したがって両者の共存共栄などということは許されるはずもなく、彼らを「同化」させなければならなかったのだろう(実際はもっと複雑な事情があったと思うけれどここでは「土地」についてのみ考察する)。


一方、これが中国大陸となると差異はさらに大きくなる。しかも中国大陸には巨大な権力が存在し、それを同化させることなど到底無理な話であった。ただし「そうあるべき」という思想があったならば実行しないまでも主張するだけならできるはずだ。「中国大陸もイザナキ・イザナミが創生した土地であり天孫が支配すべきであるにも関わらず不当にも反逆者によって支配されている」とかなんとか。そうならなかったのは本州や九州のように「同じ島」の中で対立しているわけではなかったので、そこまで執着する必要性を感じなかったからであろう。
(なおここで問題になるのは朝鮮半島任那である。朝鮮半島をイザナキ・イザナミが創生したという神話があっても良さそうなものではあるが現実にはそれが存在しなかった理由はよくよく考えてみる必要があるだろう。半島とはいえ大陸と地続きだからという単純な理由かもしれない)


かくして拡大は日本列島内部で止まり、元々は「全世界の成り立ち」を語る神話であったものが「日本神話」という世界の中の一地域の神話として完成することになったということに違いない。


この神話の性質の変化によって様々な矛盾が生じることになるのは避けられない。その一つが「太陽」に関することであることは疑いない。神話の範囲が「日本」に縮小しても太陽は普遍的な存在であって「日本」の外にも太陽があり、その太陽と「日本」の太陽は同じものであり縮小は不可能なのである。


学者はこの重大な問題に全く関心を払っていないようにみえるが、それでは日本神話の本質が解明できないのではないかと俺は思う。