私が死んでも代わりはいるもの

この前放送された『世にも奇妙な物語』は(いい意味で)くだらないのが多くて面白かったんだけど「不死身の夫」はありきたりって感じだった。といってもそれだけじゃ記事書くほどのことではない。でもDNAネタということで。


SFに登場するクローン人間というと自分と瓜二つな人間で役者が一人二役で演じる場合が多いわけだが実際のクローンは、

「クローン人間」というと、「自分と姿・形が全く同じ人間」というイメージが一般にあるが、仮に自分のクローンを作る場合、誕生した時点ではクローンは赤ん坊であるため、現在の自分とは年齢のギャップが生じる。

クローン - Wikipedia
というのはちょっと考えればわかることだ。


まあ、それは「謎の技術」で成長を早めることで自分と同年齢の個体を作ることができるということにすれば解決できる。もちろん自分と同じといっても記憶まで共有するものではないから、これまた「謎の技術」で記憶も同じということにする。こうなると「クローン人間」というより「コピー人間」である。そこまではいい。


で、この手の話でいつも腑に落ちないのは、コピー人間がいるからといっても、それで自分が死んでも構わないという感覚だ。俺だったら絶対に嫌だ。「自分」がどうしても死ぬという事実を作りたいならコピーの方に死んでもらいたい(まあ向こうもそう考えるわけだが)。今回の話ではそれは無理で自分が死ななければならないわけだが「それじゃ仕方ないから死ぬか」という考えは俺には絶対にできない。


そう思いませんか?


ただし「世界五分前仮説」に類似した考えかたをすれば、そう考えている「俺」は実はコピーで、昨日までの「俺」は既に死んでいる。あるいは生きていて、この世のどこかに人知れず拉致されて人体実験されていたり拷問されたりしているんだけれど、「昨日の記憶」を持っている「俺」はそんなことは露知らないということも有り得るかもしれない。でもこの場合は「俺」はそのことに全く関与していないので、先日の作品とは全く異なる。


あるいは、生まれつき自分が死んだらコピーが引き継ぐという環境で育った場合は違うもしれない。ミツバチの働き蜂などは自分の子孫を残すことができないが、自分とDNAが近い女王蜂とその子供を守るために死んでいく。全く同じ容姿で全く同じ記憶を持つものが生きるために自分が死んでも構わないという感覚が芽生えてくるのかもしれない。でもハチと人間じゃかなり違うだろとは思う。


自分の子供のためなら死んでも構わないというのは割と普通の感覚だ。子供も場合は自分の遺伝子は2分の1だから、100%同じコピー人間ならなおさら平気だということになるかといえば、ならないように思う。まあそういう状況になったことがないので絶対にそうだとは言い切れないわけだが。