内田樹の支離滅裂

書くつもりはなかったんだけれど、とてつもなくひどい話なのに批判らしき批判が出てこないので少し書く。

弁慶のデインジャー対応について (内田樹の研究室)


何が一番ひどいかというと、これ。

私たちがもし幸運にも破局的事態を生き延びることがあったとしたら、私たちはそのつど「なぜ私は生き残ったのか?」と自問しなければならない。
「他ならぬ私が生き残ったことには理由がなければ済まされない」という断定は誇大妄想でもオカルトでもなく、人間的意味を「これから」構築するための必須条件なのである。
だから、WTCをテロの直前に離れた人が「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気がして」というふうに事後的に自分の「異能」を発見するようになるのは当然のことなのである。
そうすべきなのである。
私が生き残ったことには意味があると思わなければ、死んだ人間が浮かばれないからである。

これは菊池誠教授の宝くじの話に少し似ている。

 でも、もし自分が買った宝くじが1等になったら、びっくりするよね。確かに必ず誰かには1等が当たるはずだけど、それが自分だったらびっくりするに決まってる。もしかしたら、びっくりしすぎて、何か理由を考えてしまうかもしれない。宝くじを買う前にたまたま神社にお参りでもしていたら、お参りのご利益だと思うだろうし、普段と違う帽子をかぶっていたらそのおかげだと思うかもしれない。

『科学と神秘のあいだ』と『科学の方法』のあいだ - 『digital ひえたろう』編集長の日記★雑記★備忘録


科学的に言えばただの偶然だがそこに何か神秘的なものを感じるというのは人間として極ありふれた思考だ。


俺は非科学的なことだからって別に否定しない(よほど害があれば別だが)。奇跡を信じることがプラスに働くことだって稀なことじゃない。たとえば自分が生き延びたのは神に生かされたからであって、以後は神に感謝して正直に生きようとかいうのなら良いことだ。


だけど、自分に特殊な能力があって、そのおかげで災厄を免れたなんて考えは肯定できない。これは俺の考えであって、それもいいじゃないかという人がいるかもしれない。ただし、少なくとも、そう思わないと「死んだ人間が浮かばれない」なんてことはないということは、多くの人が首肯するところだと思う。というか、むしろそんな考えは死者に対する冒涜ではないだろうか。死んだ人は無能だといっているのだから(なお、神に選ばれたという場合も、優秀だから選ばれたと考えるのならやはり肯定できない)。


奇跡を信じることは必ずしも悪いことではないという話と、自分に特殊能力があるので助かったと考えることが必要だという話では、大きな隔たりがある。最後の

私が生き残ったことには意味があると思わなければ、死んだ人間が浮かばれないからである。

だけ読めば、なるほどと感心してしまうかもしれないけれど、悪質かつ巧妙に話が捻じ曲げられているのである。


それと、

「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気がして」

について。


これは、誇大妄想やオカルトの場合もあるけれど、そうではない場合もある。世の中には科学で解明できていないことは山ほどあるし、解明できていても膨大な計算が必要になり現実に対応できないことも山ほどある。その場合、経験を積んで身に付けた直感の方が優れていることもある。それは決して非科学ではない。


だが、911テロを未然に直感で予知することは可能だっただろうか?いずれ大規模なテロがどこかで起きるかもしれないという程度なら予知できたかもしれない。というか、していた人は大勢いるだろう。しかし何月何日にどこでどうやってテロが起きるかを直感だけで予知できたかといえば、およそ無理な話であろう。


ここで内田氏は、経験に基づく直感と単なる妄想の混同をしているのである。そして、原発において、理論的には大丈夫なはずだが「なんだか厭な感じがする」という話を、どっちの話でしているのかを巧妙にごまかしているのである。そして東電や政府や原発推進者を批判したい人は、曖昧な内田氏の主張を都合よく解釈して支持するのである。


これが内田氏とその支持者のいつものパターンである。少しでも共感できるところがあれば、それ以外の大部分を占める奇妙な論理は帳消しにされてしまうのだ。