それはプロイセンの公教育のことでは?

教育のコストは誰が負担するのか? (内田樹の研究室)

というのが、公教育制度導入までのアメリカの納税者たちのロジックであった。
いまの日本の奨学金制度を支えるロジックとほとんど選ぶところがない。
それに対して、公教育制度の導入を求める教育学者たちはこう反論した。
いやいや、それは短見というものでしょう。
ここでみなさんの税金を学校に投じると、どうなりますか。
文字が読め、算数ができ、社会的ルールに従うことのできる労働者が組織的に生み出されるのです。
その労働者たちがあなたがたの工場で働いたときに、どれくらい作業能率が上がると思いますか。それがどれくらいみなさんの収入を増やすと思いますか。
つまり、これはきわめて率のよい「投資」なんです。
公教育に税金を投じることで、最終的に得をするのはお金持ちのみなさんなんですよ。
「他人の教育を支援することは、最終的には投資した本人の利益を増大させる」というこのロジックにアメリカのブルジョワたちは同意した。
そして、世界に先駆けて公教育制度の整備が進んだのである。


先の記事で書いたように、アメリカの公教育の起源を調べても、このような話が一向に見えてこない。あるのは「民主主義社会に欠くことのできない要素」とか、『「良心」や「良心の内面化」を普及させる手段』とか、ホレース・マンの自然権の話なんですよね。


一方、これに類似した話はプロイセンの公教育の話として出てくる。
プロイセン初期工場法の成立と ブルジョアジーの民衆教育観の変容(對馬達雄 秋田大学)(注PDF)

すなわち本格的な労働手段変革過程において児童労働問題を媒介として民衆教育のすぐれて量的(就学義務の徹底化)質的(内容的)な拡充問題が有機的関連性をもって客観的に提出されてくることになるのである。

Heydtによる1839年条例修正への積極的対応は、かかる生産技術変革構造−それに適合しうる労働力創出−の認識を前提条件としていた。機械制工業という限定において、政策主体内の児童労働をめぐる教育政策と経済=営業政策の乖離は解消し、両者に架橋が生じたのである。

内田先生が書いているのって、もしかしてアメリカじゃなくてプロシアのことなのでは?
(まあ、アメリカにもあったのかもしれないけれど。しかし、そうであっても名目上はあくまで上に書いたようなことを掲げていたのではなかろうか。そして、その点が重要だとも思う)


※「世界に先駆けて公教育制度の整備が進んだ」がヒントになるかと思ったけれど、これも何をもって「世界に先駆けて」いるといえるのかがわからなかったりする。
近代公教育制度の確立 〜西洋教育制度 - Arcadia Rinta - livedoor Wiki(ウィキ)


※あと、Google ブックスなんで引用していいものかわからないので控え目にするけれど、『現代学校教育要論: 教職教養の教育学』 (著者: 松島鈞 日本文化科学社)という本では、義務教育を「課程主義」(富国強兵的見地から生まれた教育制度、プロシア・戦前の日本)と「年数主義」(民主的な制度、イギリス・アメリカ・フランス)と区分し、「著しい対比をなすもの」としている。



(追記)10:01
教育のコストは誰が負担するのか?: EU労働法政策雑記帳
のコメント欄で「哲学の味方」氏が重要な指摘をしていますね。

一方、内田氏が教育について重視しておられるようなのは、文字を読む、四則の計算をする、外国語も習得、集団行動ができる、規則に従う、などで、そして、社会の再生産に役立つ良き社会成員となる、ことのように見えます。また、hamachanも特に大学教育において「職業レリバンス」をとても重視しておられる。つまり、お二人とも、社会の役に立つ労働者としての教育、をとても重視しておられるように、私には見えます。
私は、公教育の目的をもっと広く、職業や労働と直接関係なくても、自分で自分のあり方・暮らし方を考え、決めてゆける、という点に置くべきだと考えており、そういう意味で、フランスのバカロレアって素晴らしい、と思っております。