{メディアリテラシー]あともうひとつ

もうこれでおしまいにしたいのだけれど、どうしても気になることがあるので。


内田先生はこう書いている。

漱石の『虞美人草』には、人々の篤志によって授かった高等教育機会を自己利益のために利用しようとする青年が出てくる。
彼が受ける罰を詳細に描くことによって、漱石は明治に学制が整備されたその起点において、「教育機会を自己利益の追求に読み替えてはならない」という重要なアナウンスメントを行った。
その効果はたぶん半世紀ほどは持続した。
そして、いま消えている。

俺は『虞美人草』を読んだことがあると思うんだけれど、大昔のことなんでどういう話かすっかり忘れてしまった。


青空文庫」にあるので、これから読んでみようと思う。
夏目漱石 虞美人草


ただし、読む前において疑問に思うのは、漱石の「重要なアナウンスメント」が当時の社会に影響力を持ち、それが半世紀も持続したというのは正直信じ難いということ。また、これまで内田先生の言論を見てきた経験からして、『虞美人草』に本当にそんな「重要なアナウンスメント」なるものが書いてあるのか疑っているということ。もちろん小説からどんな教訓を得ようと、それはその人によるものだから自由だが、効果が「持続した」とある書いてあるからには、多くの人々が「共通の教訓」を得たのでなければならない。本当にそういう教訓が書いてあるのか疑っているということだ。


なお、漱石自身は、

けれ共、一種の作品が出来て、其作品が、作品として出来上る――即(すなわ)ち作品として外のモーチブに支配を受けないと云う意味、更に言葉を換えて詳(くわ)しく云うならば、自分が利害関係の為めに作品を拵(こし)らえ上げたとか、或は私憤を洩(も)らす為めに書き上げたとか、総(す)べて目的の他にある所の作品は、私は作品として出来上ったとは言わない。作品として出来上ったと云う意味は、何物の支配命令も拘束も受けずに、作品其物を作り上げるを目的として作られた作品のことである。で、作品として出来上った所の其作品が、何かの教訓を読者に与えるなれば、敢(あえ)て作家の辞する所でない。一向差支(さしつか)えないのである。だから読者が『虞美人草』を読んで、此の作は斯(こ)う云う教訓を書くために、それに合せるように殊更(ことさら)に作家が筆を曲げて書いたのだと云うことを感じるなれば、私は其作に殊更故意に書き上げた作為の痕跡(こんせき)が見える丈(だ)け、それ丈け多くの作品としては失敗したものであると言わねばならぬ。

夏目漱石 予の描かんと欲する作品(青空文庫)
と言っている。



さて、「これから読んでみようと思う」と書いたけれど、せっかちなので、邪道だろうが実のところ部分的には先に見てしまった。もちろん、これだけではこの小説を理解できるはずがないのだけれど、そのことについて書いておく。


内田先生が言うところの「人々の篤志によって授かった高等教育機会を自己利益のために利用しようとする青年」は「小野」のことであろう。その小野について描かれた場面にこんなのがある。

しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪(か)き廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入(はい)りたくてたまらない。

俺が思うに、この小野という人物は才能があると自負している。その才能を発揮することが社会貢献になると信じている。そして小野はその「社会貢献」のためには、不義理をすることも止むを得ないと考える人物である。


もうこの時点で俺が受け取った「重要なアナウンスメント」は内田先生と異なるものになっているのである。