アメリカの公教育の目的

ところで、内田先生の記事
教育のコストは誰が負担するのか? (内田樹の研究室)

それに対して、公教育制度の導入を求める教育学者たちはこう反論した。
いやいや、それは短見というものでしょう。
ここでみなさんの税金を学校に投じると、どうなりますか。
文字が読め、算数ができ、社会的ルールに従うことのできる労働者が組織的に生み出されるのです。
その労働者たちがあなたがたの工場で働いたときに、どれくらい作業能率が上がると思いますか。それがどれくらいみなさんの収入を増やすと思いますか。
つまり、これはきわめて率のよい「投資」なんです。
公教育に税金を投じることで、最終的に得をするのはお金持ちのみなさんなんですよ。
「他人の教育を支援することは、最終的には投資した本人の利益を増大させる」というこのロジックにアメリカのブルジョワたちは同意した。
そして、世界に先駆けて公教育制度の整備が進んだのである。

これって本当なんでしょうかね?


アメリカ 公教育」で検索して真っ先にヒットするのが
Ⅰ.アメリカの教育デトロイトりんご会・補習授業校ホームページ)(注:PDF)
という論文なんだけれど、そこには

南北戦争(1861-1865)の開幕前後には、市民の識字力が民主主義社会に欠くことのできない要素であることが認識され始め、北部の州のほとんど、南部の何州かでは公立の学校制度が確立されました。

って書いてあるんですけどね。


また、「アメリカ公教育の父、ホレース・マン」についての記事には、
ホレース・マン『民衆教育論』

 そこでマンは、なぜ教育が無償でなければならないのかを説いたわけだ。

 マンによると、自然というのは、誰のものでもない。それは神のもとに共有されるべき財産だ。だからこれは自分のものだと言ったって、ほんとうはそもそも、それは全人類のためにあるものなのだ。

「したがって、どのような手段を用いて財産を手に入れたとしても、威厳ある世代の継続進行において、次代の継承の要求や主張を無視して、財産を保持し、処分するいかなる自然的権利も、いかなる道徳的権利も、何人も有していないことは抗すべからざる結論ではないだろうか。」

と書いてあるんですけどね。


さらに、
北野秋男著『アメリカ公教育思想形成の史的研究 ―ボストンにおける公教育普及と教育統治 ―』(黒田友紀 東京大学院)(注:PDF)
では、「ホレース・マンにより公教育が普及した」という「一般的解釈」があるがボストンでは1810年代〜1820年代に公教育システムが確立されていたと書いてある。しかし、それも内田先生が主張するような話ではない。

第4章では、ボストン・エリート達の当時の状況を詳細に記述することによって、ボストン・エリートの富や財産の獲得は自己利益の追求だけではなく、「人格形成」と自己の「救済」をめざすものであったことが描かれている。資本主義が発達しつつある中で、資本家、ボストン・エリート、宗教家であるチャニング、ウェイランド、政治家であるマンらが、富や財産を部分的に認め、富と救済や道徳の接合点を紡ぎ出していることが明らかになっている。チャニング、ウェイランド、マンによって、新たな道徳としての「良心」や「良心の内面化」を普及させる手段として、公教育の必要性が説かれたのだった。


内田先生のような説は今のところ信頼できるソースでは見つからない。




なお、公教育に反対する理由の方も、内田先生は、

教育を受けて、知識なり、技術なりを身につけると、その子どもはいずれ、高い賃金や尊敬に値する社会的地位を得るチャンスがある。
つまり「教育を受ける」というのは子どもにとって自己利益の追求である。
そうであるなら、教育は自己責任で受けるべきである。本人か、その親が、将来期待される利益に対する先行投資として行うべきものである。
われわれ成功者は自助努力によってこの地位を得た。誰の支援も受けていない。
そして、自分の金で、自分の子どもたちに教育を受けさせている。
なぜ、その支出に加えて、赤の他人の子どもたちの自己利益追求を支援する必要があるのか。
だいいち、そんなことをしたらわれわれ自身の子どもたちの競争相手を育てることになる。
教育を受けたければ、自分の財布から金を出せ。
以上。

と書いているけれど、上で引用した、「Ⅰ.アメリカの教育」によれば、

1800年代前半には、全ての子供たちに無料の公教育を与える動きが活発になってきますが、多くの人々は、他人の子供の教育に税金を使うのは許せない、私塾の経営が悪化する、教育は教会と家庭に任せるべきだ、などと反対していました。

とある。「他人の子供の教育に税金を使うのは許せない」は一致しているけれど、それ以外にも「私塾の経営が悪化する」「教育は教会と家庭に任せるべきだ」という理由がある。



内田先生の書くものは何一つ信用できない。中には正しいことも書いてあるかもしれないけれど、それは検証してみてから正しいとしなければ危なっかしい。もっと信用できるものがいくらでもあるのに、わざわざこんなものを有りがたがるというのは、正当科学よりも擬似科学を信用する心理と極めて似ている。それでも内田先生の主張を重んじたいのなら、厳密な検証が必要だ。