しょうもない議論(その3)

まだまだ言いたいことの十分の一も言っていない。きっこ発言は短い文章の中に問題点がてんこ盛りだ。さらに、批判する側が不適切な批判をすると、話はさらにややこしいことになって収拾がつかなくなる。


残念ながら、きっこの発言を巡る議論は既に収拾のつかないところまで行ってしまっている感がある。その中から一つ一つを取り出して論じるのは多大な労力を必要とするし、そこまでしても誰もついてこないことが予想される。


俺はきっこを批判することにそれほど情熱はない。ただし、類似のしょうもない議論はそこら中にあり、それらについて考える場合にきっこを巡る議論はわかりやすいモデルケースとして役に立つだろうとは思うので、徹底的に検証してみたいという動機はある。とはいえ既に挫折しかけている…



さて、ネット上の議論でおなじみのものに「価値相対主義」というのがある。俺がそれについて正しい理解をしている自信はないけれど、例えば自己の価値観で正しいと思うことが、他者にとっても正しいとは限らないというようなことを言うときに使われるんだと思う。


「肉食」はある人にとっては生きるために必要なことだけれど、別の人にとっては許されざる悪行だとみなされる場合もある。前者と後者は対立している。前者が毎日肉食していたのを二日に一度に減らしたからといって、後者がそれで納得できるわけではない。前者が肉食を止めるか、後者が考えを改めるかしなければ、対立はなくならない。両者の妥協で解決する問題ではない。


これはどっちが正しくて、どっちが間違ってるという話ではない。異なった共存不可能な価値観があるということだ。一方の価値観を持った人間が他方の価値観を持った人間の意見に同意することはできない。同意したとしたら、それは価値観を改めたということだ。


で、ここで話がややこしくなるのだが、「認める」という言葉には、「同意する」という意味と、異なった意見を表明することを「容認する」という二つの用法がある。例えば俺は肉食をする。前者の意味で肉食は悪行だという意見を「認める」というのは、即ち俺が肉食を止めるということであり、肉を食いながら認めたとしたらそれは言行不一致だ。後者の場合は、俺は肉食は悪行だという意見に同意はしないが、他者がそう考えることは構わないということだ。この二つがしばしば混同されている。


だが、それ以前に、「他者の考えを自己の価値観で評価する」という問題がある。そしてここでも混乱が見られる。


「他者には他者の価値観があることは認めるけれど、それを自己の価値観で評価する」という話と、「他者の価値観の存在を認めず、相手も自己と同じ価値観を持っているのだと決め付ける」という話がごっちゃになっているケースがよくあるのだ。


前者は例えば、「あなたが肉食を悪いことだと考えていないのはあなたの価値観によるものだ。だけど私はあなたが肉食をすることを許せません」というようなケースであり、後者は「あなたが肉食を悪いことだと考えないのが自分には理解できません」というケースだ。こう書くと全く別の話なんだけれど、「他者の考えを自己の価値観で評価する」と言った場合にはどっちの意味で使っているのか、前後の文脈を考えないと判断しにくい。


で、このように長々と書いてきたのは、この議論で参加者が「かわいそう」という発言(そもそもそういう発言が本当にあったのか疑問に思うが、あったとして)を、どのように捉えているのかが人によりバラバラであり、しかもそれを自覚していないが故に話が噛み合っていないように見えるからだ。