アマテラスとタカミムスヒ(1) 系統の異なる神話の結合

「天岩戸神話」と「天孫降臨神話」は本来系統の異なる神話である。それが一つの神話となったのだ。岡正雄

タカミムスビ神話とアマテラス神話との混淆過程において、成立し乃至は編纂者の神話合理化の意図によって結びつけられたもの

という可能性を提示している(「皇室の神話-その二元性と種族的文化的系譜について-」『日本神話研究 2』学生社)。その上で、

この結合が、記紀編纂者の単なる恣意的な意図によってなされたとも考えられず、結局わたくしは種族乃至民族の接触混淆の過程において成立したものと推定するのである(同上)

と結論付けている。一方、溝口睦子氏は岡正雄の否定した「恣意的な意図」の方を採用したのである。


いずれにせよ両氏とも「異なる神話の結合」ということでは一致しているのであるが、「異なる神話の結合」といっても要は天孫降臨神話」における命令者の位置がタカミムスヒからアマテラスに置き換わったということだ。だから実態はアマテラスの「天孫降臨神話」への侵略である。併合か侵略かというどこかで聞いたような話だが、これは結構重要な話だと思うのである。これを「結合(岡正雄)」とか「神話の一元化(溝口氏)」というのは、そこに重要な問題点があることに気付いていないからであろう。


(なお溝口説によれば大王系の神話がタカミムスヒ神話であり、地方豪族の神話がアマテラス神話なのであり、その「一元化」の主導者は天皇である。つまり「侵略」された方が「侵略」の主導者である。ただし大王系の神話は意図的に導入されたものとしているので神話への愛着を考慮しなくても良いということだろう。俺から見れば神話をなめているようにしかみえないが)


俺のみるところでは両氏とも天孫降臨神話からの天岩戸神話への影響については何も述べていないように思われる。しかし、俺がこのようなことを書くのはもちろん俺が天岩戸神話への影響があったと考えているからである。


それは何かというと「太陽神アマテラスが太陽神ではなくなった」ということだ。


天孫降臨神話におけるアマテラスが太陽神としての性格を示していないことは岡正雄も指摘している。そしてそれが本来の主神がタタミムスヒであることの根拠にもなっている。一方、天岩戸神話におけるアマテラスは太陽神として活躍していると書いている。溝口氏も「素朴な太陽女神」としている。


だが、そうではないのだ。もちろん元々は太陽神というか太陽だった。それは類話のミャオ族の神話を見れば明らかだ。しかし日本書紀』におけるアマテラスは一見すると太陽のようでいてアマテラスが太陽であることを明確に示す記述が欠けているのだ。


これはアマテラスが皇祖神であるという先入観を捨てて天孫降臨神話を素直に読めばタカミムスヒが皇祖神であることがわかるというのと同様、アマテラスが太陽神だという先入観を捨てて天岩戸神話を読めばわかることだ。


日本書紀』本文ではアマテラスが岩屋に籠ったら国中が常闇になったとしか書いてない。なぜ闇になったのかという因果関係は一切書いてないのだ。アマテラスが太陽だと決め付けて、太陽が隠れたので暗闇になったのだと勝手に思い込んでいるだけなのだ。アマテラスが光り輝いている存在だなんて記述は一切ないのだ。異説の「第一」「第二」も同様である。唯一「第三」だけが「日神之光満於六合」と光り輝く存在であることを明記している。ただし見ての通り神の名は「アマテラス」ではなく「日神」だ。


そうはいっても、アマテラスが岩屋に隠れたら暗くなったというのはアマテラスが太陽であることを暗示しているのは確かだろうという反論は当然予想できる。もちろんそれはその通りなのだ。元々アマテラスは太陽であるし『日本書紀』の天岩戸神話でもアマテラスが太陽だと理解するのは極めて常識的なことだ。しかし、それでもアマテラスが太陽だという明確な記述がないというのは重要な意味を持っていると俺は思うのだ。そしてそれは天岩戸神話と天孫降臨神話とが「結合」した結果としてそうなったのだろうと思うのだ。


日本書紀』の天岩戸神話におけるアマテラスは太陽(神)的性格を濃厚に有している。有しているにもかかわらず「アマテラスは太陽神ではない」ということも可能であろうと思うのだ。


それではアマテラスはいかなる存在となったのだろうか?その問題は「天孫降臨神話」におけるアマテラスとは一体いかなる存在なのかという問題でもある。そしてそれは「天孫降臨神話」におけるアマテラスを主神とする異説、あるいはタカミムスヒと併記する『古事記』は皇祖神がタカミムスヒからアマテラスに移転したことを示しているという話なのかという問題につながるのである。