伊賀越戦死者200人について(その2)

引き続き

此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候

の解釈について。これを考えるについてはさらにややこしい問題がある。


『家忠日記』の記事紹介と解説(PDF)
を見れば、この「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」は、日記の欄外に追記の形で書かれているのである。


こうなると、そもそもこれは松平家忠が書いたものかさえ問題となる。というのも『家忠日記』は文字だけでなく余白に略画も描かれているのが特徴なんだけれども、この略画の中に家忠が描いたものではないのがあるらしい。
<論説>家忠日記の原本について 岩沢、愿彦 東京大学史料編纂所報第2号 1968.3 (PDF)
だとしたら欄外の追記も同様の可能性があるかもしれない。ただし上の岩沢氏の論文がそれに触れてないので、筆跡等から考えて問題ないのかもしれないが。


追記部分も家忠が書いたものだとしても、この記事が書いてある6月4日の日記に家忠は大浜に家康が上陸したことを聞いて出迎えに行っているところまで書いているのだから、その際に200人も戦死したことを聞いたのなら、欄外の追記という形にはならなかっただろう。日記を出迎えたその場で書いたということは無いだろうから、相当後になってから戦死情報を聞いたということになるだろう。翌日以降かもしれない。しかし200人戦死というのは相当なものだ。そんなに情報が伝わるのが遅くなるものだろうか?戦死者200人の内に「御人数」が含まれると解釈するのが自然というものだから、雑兵ならともかく「御人数」の戦死は家忠にとっても重要なことだろう。しかし誰が戦死したのか記していない。そしてこのことは他の史料にもない(多分)。そこが不思議でならない。


そう考えると、やはり死んだのは家康方ではないように思われる。


しかしながら「うたせ候」を「討った」と解釈するのも、また先に書いたように文法的には「討たれた」が正統なように思うので悩ましい。さらにいえば200余人も討ったのなら、これはこれで他の史料にも書かれてしかるべきものではないかと思う。家康が大ピンチのときに、たとえ雑兵といえども200余人も討って危難を逃れたのなら、武功として記録されるべきものではなかろうか?武功あっての武士というものだろう。


信長公記』には「一揆どもさし合ひ」とは書いてあるけれども「討った」とは書いてない。『三河物語』には一揆のことさえ書いてない。『東照宮御実紀』には家康と別れた穴山梅雪一揆に討ち取られたとはあるけれど、家康一行については

一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追拂ひ

東照宮御実紀 徳川実紀 東照宮御実紀 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言
とあり、ここで「討った」のだと解釈できないことはないかもしれないけれども、討ったのなら討ったと書けばいいのになぜ書かないのか不思議。


以上のことを考えると「討った」と解釈するのもまた大いに問題があるように思われる。では「討たれた」でもなく「討った」でもないとしたら、どう解釈すべきだろうか?


すると、この情報は間違ってたという可能性があるように思われる。ただ、これはこれで間違ってたのなら後でその旨を再度追記するか、後日にそれを書くのではないかとも思う。


他の可能性はあるだろうか?それはもう無理であろう。ただし、これが伊賀越のことを記したものだと考えた場合は無理だという意味だ。


ここは発想を変えて、これは伊賀越について記したものではないと考えるべきではないだろうか?


家忠日記』の6月4日の記事を最初から見てみれば、

四日 庚寅 信長(御父子)之儀秘定候由、岡崎緒川より(明知別心也)申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也

とある(カッコ内は追記だと思われる)。この上部に「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」と追記されているのである。そしてこれが伊賀越の記事の追記だと考えられているのだ。


しかし、そうではなくてこれは「信長(御父子)之儀秘定候由」についての追記ではないだろうか?


もちろん「此方」の「此」とは普通に考えれば「徳川」のことだと考えるのが普通であろう。しかしそれで解釈するとあまりにも謎が多いのだ。そこでこの「此方」を明智方に対する「此方」と考える、すなわち討ち取られた200余人とは本能寺の変明智光秀軍と戦って死んだ者達のことだと考えることは不可能であろうか?


なお松平家忠織田信長のことを日記で「上様」と書いている。松平家忠のことはよく知らないんだけれどウィキペディアによれば「徳川氏の家臣」となっている。家康の家臣が信長を「上様」と呼ぶのは普通のことなのか、俺はそういうの詳しくないんで知らない。だからよくわからないんだけれども「上様」と呼ぶからには、本能寺や二条新御所その他で戦死した人達を「此方御人数」と呼ぶこともありえるんじゃないかと思うのである(いや本当よくわからないんだけれども、そう解釈すれば謎が解けるように思うのだ)。