⇒【真田丸】コミカルすぎる伊賀越えだが実は(敵が)200人死んでいる件【うわ〜うわ〜】 - Togetterまとめ
これは『家忠日記』という史料に書かれていることが元になっていると思われる。原文はこう。
此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候
で、これをどう読むのかというのが難しい。上のまとめでは「家康方が討ち取った」という話で進んでいる。ウィキペディアに
一方、大浜に到着した家康を迎えた松平家忠は、一行が雑兵二百人ほどを討ち取ったという話を日記に記している[2]。
⇒伊賀越え - Wikipedia
とあるし。
しかし、丸島和洋氏は、
伊賀越え。家康は200人にも及ぶ戦死者を出しています。ただし、実際は近江甲賀郡から伊賀に入り、伊勢に抜けるというルートであったため、伊賀国内は20キロ程度、しかも1日で突破しています。さらにいうと、実は織田信雄領ですから、必ずしも異例なルートであったというわけではありません。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 7
と家康方が200人死んだと解釈されている。
ちなみに「『家忠日記』の記事紹介と解説」という記事では
4日の上部には、雑兵200人余りを討ったという記述がありますが、これは伊賀超えの時のことを言っているのでしょうか。
⇒『家忠日記』の記事紹介と解説(PDF)
と書いてある。「でしょうか」とはあるけれど、これは「伊賀越えの時のこと」でしょうかという意味で「雑兵200人余りを討ったという記述」があると断言しているわけで、「討った」というからには家康方が討ったという意味で理解しているのでしょう。この記事は駒沢大学禅文化歴史博物館の企画展の講演の資料だと思われ、作成したのは久保田昌希氏であろうと思われる。
⇒企画展「戦国武将の日記を読む〜「松平家忠日記」に見る信長・秀吉・家康〜」(2009.11.01〜12.18) | 禅文化歴史博物館 | 駒澤大学
つまり学者の間でも意見が割れているということですね(俺の誤解でなければ…)。
これを「討った」と解釈するならば「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」は「(家康が)〈此方御人数〉に雑兵共200余人を討たせた」と読んだということだろうか?
一方、「討たれた」の場合は「〈此方御人数、雑兵共〉が200余人が討たれた」と読んだということだろうか?
※「〈此方御人数〉が雑兵共200余人に討たれた」という解釈もできなくなないようにも思えるけど自信なし。
ちなみに「うたせ候」だから「討たせた」だろうと考えてしまいがちだけれど、『平家物語』に
監物太郎をも討たせ候ひぬ
という記述があり、これは「討たれた」という意味なのである。これは「相手に討たせた」ということだと考えられるそうだ。
⇒平家物語と古文単語
だから「うたせ候」は「討たれた」と解釈する方が武士の文法としては正統なように思われる。
しかしながら、伊賀越で家康方が200人も討たれたという話は他の史料にはない(多分)。そもそも伊賀越で200人討たれて家康が無事だったということは、伊賀越の人数は相当多かったと考えられるけれども、そう書いてある史料もない(多分)。なお「御人数、雑兵共」とあるからには荷駄運びの人夫が含まれるとは思えない。フロイスは「引き連れていた兵士も多く」と書いてるそうだけれども、これは穴山梅雪との比較であろう。また雑兵だけでなく「御人数」が討たれたのなら、その名前が不明なのも不思議なことだと思われる。
(長くなったのでつづく)