全く詳しくないけれど気になったんで。
ちなみに史実では逆で、真田昌幸は駿府の家康に挨拶してから上洛しました #真田丸
— まとめ管理人 (@1059kanri) 2016年5月8日
@1059kanri 史実通りです。考証の黒田基樹氏曰く「昌幸の秀吉出仕は天正15年2月で家康出仕は3月、秀吉出仕時期は実は近年まで明確でなく、それを記した史料が新しく確認された、それについて記しているのは今のところ自分の『真田昌幸』(小学館)だけのよう」 #真田丸
— mm (@mmhinoeuma) 2016年5月9日
@kazumaru_cf 「酒井左衛門尉が大坂から帰られた。信濃真田・小笠原は関白様の指示により、(家康に)出仕した。酒井左衛門尉が同道した」が正しい訳。原文は「酒井左衛門尉大坂より被帰候、信州真田・小笠原関白様御異見にて出仕候、酒左同心候」というもの。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年5月9日
『家忠日記』ほか
とある。「ほか」が何かわからない。「大日本史料」の解釈も『人物叢書 真田昌幸』と同じ。さらに『真田家譜』に天正15年正月7日に真田昌幸と小笠原貞慶が駿府の家康に謁したとあることを紹介した上で『家忠日記』と日付が合わないとする。「ほか」とは『真田家譜』のことであろうか?
ところでこの
「酒井左衛門尉大坂より被帰候、信州真田・小笠原関白様御異見にて出仕候、酒左同心候」
というのは、柴辻氏・「大日本史料」の解釈と丸島氏等最近の学者の解釈の二通りしかあり得ないのだろうか?
俺はド素人ながら直感的に思ったのは
「酒井左衛門尉が大坂より帰ってきた。信濃真田・小笠原は関白様の指示により、(大坂に)出仕した。酒井左衛門尉は両名に同行していた(そして今、酒井は大坂から帰ってきた)」
という意味じゃないかと。
これは本当に直感的にこの解釈が思い浮かんだのであり、辻褄を合わせようとしたわけではない。
で、そうなると「大日本史料」は『家忠日記』と『真田家譜』は同じことを記していると認識して、日付が合わない(当然一次史料の『家忠日記』を採用しているのだろう)としているけれども、そうではなくて、正月7日に昌幸は家康と駿府で面会。その後家康方から酒井左衛門尉が両名に同行して大坂に行き秀吉に出仕。酒井左衛門尉は3月18日に駿府に帰ってきたということではないのだろうか?
すると「昌幸の秀吉出仕は天正15年2月で」とも合致すると思うのだが。もちろん『真田家譜』は二次史料だから、こう解釈すれば整合性があるといっても安易にそうすべきものではないのだろうけれど…