穴山梅雪は家康に殺されたのか?

この話の出所は『老人雑話』という史料に

穴山路地にて一揆に殺さるゝと云、又東照宮の所為なりとも云。

というもの。これを家康が梅雪を殺したと解釈したためのものだろう。


『老人雑話』は伊藤坦庵という人物が友人の江村専斎(1565-1664)の日常談話を記録したものである。
江村専斎 - Wikipedia


江村専斎は本能寺の変のあった天正10(1582)に18才。播磨三石城主・江村民部大輔孝与の孫だというから、それなりの情報を得ていただろうと思われ、少なくともそういう話は当時本当に言われていたのだろうと思う。


しかし、他の史料にはそのようは話は書かれていない(と考えられていると思われる)。もし『老人雑話』が史実を書いているのだとしたら、なぜ他の史料には見えないのか?


それは「家康が梅雪を殺したなどという都合の悪い話は書けなかったからだ…」


陰謀論的に考察することもできよう。というかそういうのを見た。


だが、だとするとなぜ『老人雑話』はそれを書けたのか?という話になろう。家康にとって都合の悪い話で他書が書けないのならば『老人雑話』も書けないと俺は思う。


そこから逆に考えれば東照宮の所為なり」は家康に都合の悪い話ではないと考えられる。


で、一応は「家康が梅雪を殺したのは戦国の世では道に反することではない」という考えによるものという可能性はある。『老人雑話』ではこの記述のあとに

さて駿府も安く東照宮の御手に入る。甲州に川尻與兵衛と云者居けるが、是も東照宮討滅して取れり。

とある。史実では甲州征伐により東照宮の所為なりが与えられたのだが、それを記したものか、本能寺の変のどさくさで手に入れたと誤認しているのか不明。また川尻秀隆は家康が討ったのではない。一揆を家康が扇動したという説があるけれども、この説によって家康が討滅したと言ってるのかも不明。単なる事実誤認かもしれない。とにかく『老人雑話』はそういう歴史認識を持っていて、なおかつそういう行為は家康にとって都合の悪いこととは考えていないのだろうと思われる。だから「東照宮の所為なりとも云」と書いた時、それは「家康が梅雪を殺した」という意味で書いた可能性は十分あると思う。そうではない可能性も捨てがたいが。


ただし、ここで「云」と書いてあるのは、そういう話があって、それを江村専斎が耳にして、伊藤坦庵が記録したということであると考えられるわけだが、そのどこかで話の真意がねじ曲がってしまった可能性もまた十分あるだろうと思うのである。


何が言いたいかというと東照宮の所為」の本来の意味は「家康が梅雪を殺した」ではないのではないかということ。


「所為」とは

1 しわざ。振る舞い。
2 そうなった原因・理由。せい。

所為(ショイ)とは - コトバンク
1の意味なら「家康が殺した」になるけれど、2の意味なら「家康が原因」ということになる。本来は2の意味だったのが1の意味に受け取られた可能性はあるのではないか?


本能寺の変・山崎の戦』(高柳光寿)では

なお梅雪は家康を疑って、そのために同道しないで、後方に遅れて通行したので殺された、と大久保彦左衛門の「三河物語」には書いてある。これはあるいは事実の一面を穿ち得た説かもしれない。それがためか、江村専斎の話を筆記した「老人雑話」には、家康が梅雪を殺したと記しているほどである。

と説明する。これは梅雪が家康を疑ったのが原因であり、家康が疑われるような人物だったから結果として梅雪が死んだ、すなわちこれが「家康が梅雪を殺した」ということだという意味かと思われるけれど、さすがにこれは無理があるのではあるまいか?


じゃあ、他に可能性はないのかと考えるに『東照宮御実記』には

穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる紱川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)

東照宮御実紀 徳川実紀 東照宮御実紀 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言
とある。これは梅雪は家康と間違われて殺されたという話。これを「家康が原因」という話として解釈することは不可能ではないだろう。


あと、実は他にも可能性が浮かんで、某史料を誤読(あるいはこれこそが本来の読みの可能性も少しはある)したのではないかとも考えたんだけれど、それはあまりにも突飛なので書くことを控える。


(追記18:20)
ふと思ったんだが「家康が伊賀越を選んだから同行してた梅雪が殺された」って単純な話かもしれない。